2011年01月01日(土)
● いすの話-13 |
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いすのデザイナー_1「レイ・イームズ」
いすの話も2年目に入りました。今年は私が直接会ったことのあるデザイナーを中心にきままな話をテーマに取り上げます。いすのデザインは楽しいのですが、それだけではありません。事業としても非常に魅力的な分野で、人と人をつなぐ、幸せにする真っ当な素晴らしい事業です。そのことを証明した先輩の話をしていきたいと思います。 |
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チャールズ&レイ・イームズはあまりに有名なので今更というかたも多いでしょう。イームズの魅力は何かというと、その作品の詩的な彫刻的な美しさにあると私は理解しています。作品的には座り心地も完璧。造形と機能が高度なレベルにおいて一致し、事業的にも成功している椅子デザインのパイオニア、希有な例なのです。私もイームズの椅子に出会って、その魅力にみせられ、椅子のデザインにのめり込んだ1人です。イームズ教の熱烈な信者の1人でした。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
しかし今は過去形です。それをやめたのはチャールズ・イームズの孫、イームズ・デミオトリオ氏に会ってから。イームズの魅力はその時代に生きた背景とセットであることと、イームズがめざした所をめざすべきということにデミオトリオ氏と会い気ずいたからです。たとえそれが微々たる挑戦であってもそれが本来の形だと。 | ![]() レイ・イームズ&チャールズ・イームズ |
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私はイームズに憧れて椅子のデザイナーになった時、岡村製作所の開発部にいて、日本で最初の国産で初のコンピューター用の事務用椅子の開発をしていましたが、その完成をまって会社を辞め、イームズがいたミシガン州にあるクランブルック美術大学院に1979年9月に私費留学しました。34才の時です。のちに家族も合流し2年半、アメリカにいました。その理由は色々ありますが、フリーランスになるにあたって海外を体験すること、それならイームズがいたアメリカ椅子デザインのメッカ、クランブルックが一番と思ったからでした。入学してしばらくして、そのレイ・イームズ自身がクランブルクに来たのです。ハーマンミラー時代のデザインディレクターだったボブ・ブレークと一緒に。前年の1978年チャールズ・イームズは70歳で亡くなったこともあって、1年後の1979年、66歳のとき、数十年ぶりにハーマンミラーの本社があるジーランドを訪ねたあとクランブルクに立ち寄ったのでした。私達クランブルックの卒業生にとって、レイ・イームズは先輩にあたります。つまりレイもクランブルックの学生だったとき、デザイン科の教師だったチャールズ・イームズと出会い、恋に落ち、結婚しカルフォルニアに移ったのです。年齢的に5歳年下です。ですからレイ・イームズにとって、クランブルックは出身母校であり、チャールズ・イームズと出会った青春の思い出の地なのです。 | ![]() クランブルック・プレス
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クランブルックは学生ひとりひとりに24時間オープンの個室スタジオを与えてくれます。そのなつかしいデザイン科のスタジオにレイはきて、私の個室スタジオにも来てくれたのです。トレードマークの黒い修道女のような服に黒いリボンをのせ、小柄で背が低く、それでいてふくよかで、良く通る、どちらかと言えば高音で話します。チャールズ共々、日本が大好き。その折り、日本に帰国するときは、スタジオに来ませんかとお誘いを受けたのです。そして、ミシガンから南回りでドライブし、ロスに来ると良いとアドバイスも頂いて。実際にはデトロイトから飛行機でロスアンジェルスに行きました。そのことをあとでレイからきかれ飛行機できたといったら、ユー、ミスといわれたのです。なんで車で来なかったんだ、途中に素晴らしい所が一杯あったのにと。写真家でもあるレイにとってはネイティブアメリカン等の居住地等を見せたかったのです。現実には超貧乏留学生にとっては車を売ったお金でしか帰国の費用を捻出できなかったのです。 | ![]() ラウンジ合板チェアー |
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私はレイ・イームズには3回あっています。1回目はクランブルック、1979年、66歳。2回目はロスアンジェルス郊外、サンタモニカとなりのベニスにある「109」イームズスタジオ訪問時、1982年、69歳。3回目はワシントンDC で開催された世界デザイン会議での時、1986年、74歳。レイ・イームズは1988年76歳でなくなっています。その2年前に一緒に撮ったワシントンDCの時の珍しく白い服をきたレイ・イームズとの写真が記念的写真になりました。2度目の「109スタジオ」訪問時、他の建築の学生共々昼食をごちそうになり、レイ自身に撮ってもらった写真がスタジオを入ってすぐの壁前の写真。後日、手紙とともに日本に送ってきてくれました。そのマメな気ずかいには頭が下がりました。 | ![]() レイ・イームズに撮ってもらったスタジオ写真 |
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レイ・イームズとの会話の中でこんなこともいっていました。「私は背が低いが、チャールズはあなたとおなじように背が高かった。椅子をデザインする上でそれが、丁度良かったのよ」とも。本当に会いたかった、チャールズ・イームズに会えなかった体験から、会いたいと思うデザイナーには早く会うこと、のちにドイツ出張時にハンス・ウエグナーに会うことにしたのです。 | ![]() 「109」スタジオ、ロスアンジェルス郊外ベニス |
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イームズ夫妻は生涯で10シリーズの椅子のデザインしかしていません。しかしその10シリーズで60人を超える職員を雇える程の収入を得ています。それがどうして可能だったかというとロイヤルティー契約だったからです。ロイヤルティー契約なしにはたとえアメリカといえども不可能です。デザインビジネスは、特に椅子のデザインビジネスはロイヤルティー契約なしにはなんの魅力もないのです。あと椅子のデザインはその作家のかおり、作風が魅力です。詩的な良きアメリカのおおらかさ豊かさ、個人の資質に裏打ちされた作品のなかに魅力はあるのであって、作家の名前を伏せ、単にお金儲けだけを追求している中からは本当に人を幸せにするデザインは出てこないでしょう。イームズに学ぶことはここにあると私は思います。
2011年1月1日 井上 昇 |
![]() 1986年ワシントンDCのカンファレンスの時 |
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2011年02月01日(火)
● いすの話-14 |
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いすのデザイナー2:「デビッド・ローランド」
2月はデビッド・ローランドをとりあげます。デビッド・ローランドは800万台以上,生産され、今も作られている、たった1脚の椅子のデザインで、生涯お金持ちのデザイナーとしてアメリカでとても有名な椅子のデザイナーです。昨年、2010年8月13日、86才で亡くなりました。どんな椅子かといいますと、「GF40/4」というスタッキングチェアーです。今ではスチールのスタックングチェアーは沢山ありますがその原型をつくったのはデビッド・ローランドといえるでしょう。いまでもその原型の椅子「GF40/4」はやはり一番すばらしいと私は思います。 |
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![]() ![]() ![]() David Rowland 1-27-2010 |
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私がデビッド・ローランドにあったのは1979年10月、ローランド55才の時。ニューヨークの彼のスタジオです。私がクランブルックに入学したのが1979年9月ですが、10月フィールドトリップという授業があって、クラスメイトと一緒にニューヨークに行き、デザインツアーでスタジオ巡りした時にあったのです。デビッド・ローランドはクランブルックの卒業生でレイ・イームズと同じく我々の先輩にあたります。それだけに我々がスタジオに訪ねたことにとても喜んでくれました。 デビッド・ローランドは1924年ロスアンジェルスで生まれました。第2次大戦ではヨーロッパ戦線で空軍に在籍。戦後、1949年、25才でイリノイ州のPrincipia College を卒業後、ミシガン州のクランブルックに入学、27才の1951年、修士卒業。その当時、クランブルックにはエーロ・サリネンが建築科、ハリーベルトイアが彫刻科の教授、フロレンス・ノル等も活動していて、大きな影響を受けていたはずです。クランブルックが一番輝いた1950年代に在籍しているのです。 |
![]() デビッド・ローランド 1979年10月 |
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卒業後、ニューヨークに出てデザイン事務所で働いたのち独立。1963年39才の時、チャンスが訪れます。当時、シカゴにあった大手建築事務所、スキッドモア・オーイングス&メリルのプロジェクトでシカゴ大学で使われる17,000台の椅子をデザインするチャンスに出会います。試作20脚以上経て、4フィートの中に40脚スタッキング出来る椅子、「GF40/4」を完成します。1フィート=12インチ=30.48cmですから4×30.48cm=約122cm。高さ122cmの中に脚部、背の支持部を入れて40脚を積み重ねる。椅子のサイズが 巾600mm×奥行520mm×高さ760mm 122cm-76cm=46cm÷40=1.15cm。 |
![]() ニューヨーク、フィールドトリップ |
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つまり11.5mmに1脚の椅子がスタッキングできる椅子をデザインしたのです。写真みていただければわかりますが、省スペースで沢山の椅子を収納出来る椅子それが「GF40/4」なのです。「GF40/4」のオリジナルは座面、背面とも鉄板で出来ています。座るとひんやりします。日本と違いアメリカは乾燥していますからサビがつく心配がありません。今では合板のものやプラスチックの座・背のバージョン、アームチェア−が出ています。アメリカには日本と違って大きな軍隊があります。この鉄板製の燃えない、省スペースで大量に収納出来る「GF40/4」は、航空母艦や軍艦、ホール等にも数多く使われ大ヒットします。デビッド・ローランドはその後、いろいろなスタッキングチェアーをデザインしますが成功しませんでした。結果としてたった一つの椅子で成功し、大金持ちになった幸運な椅子デザイナーとしてデザイン史に名を残すことになりました。「GF40/4」はアメリカンデザインのパイオニアの椅子のひとつです。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
今はデンマークの家具会社HOWEで「40/4」として、プラスチックの座・背のバージョン、アームチェア−を発売、日本ではセンプレデザインで買うことができます。ちなみにセンプレデザインのオーナー、田村昌紀さんもクランブルックの出身です。 | ![]() HOWE 40/4 |
![]() ![]() |
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デビッド・ローランドは背が高くダンディー、穏やかな話し方をする人で、私はその後シカゴの家具見本市で何度かあいました。私のことよく覚えていてくれて「40/4」を日本で発売することに心砕いていました。アメリカの椅子ビジネスはロイヤルティービジネスであるということもその背景にあります。デザイナーはセールスマンでもあります。椅子デザインはビジネスであり、それは反面ビジネスマインドのないデザイナーは椅子のデザイナーに向いていないということでしょう。静かな白髪の椅子デザイナー、デビッド・ローランドから教えられたことはそのことでした。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() ![]() Thonet Sof-Tech Collection 2011年2月1日 井上 昇 |
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2011年03月01日(火)
● いすの話-15 |
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いすのデザイナー3:「マリオ・ベリーニ」
3月はイタリアのマリオ・ベリーニ氏をとりあげます。マリオ・ベリー二氏はイタリアで数多い椅子のデザイナーの中でもエットレ・ソットサスや近年亡くなったジコ・マジストレッティー等と並んで巨匠中の巨匠の1人だと私はみています。建築の方でも有名ですが工業デザイン、家具のデザインでもとても魅力的な作品を手がけています。 |
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学生時代から長年イタリアの雑誌でみかける雲の上の存在だったマリオ・ベリーニ氏とお会いしたのは15年前、インターオフイスの原田社長とミラノのオフィスと自宅にお伺いしてからです。すごく気さくな方です。日本にもよく来られていて、パーティー会場でその後、時々お会いする機会があり挨拶すると、私のことよく覚えていてくれて恐縮するばかり。ここでも大物は優しいという共通項を感じます。ミラノで訪ねた、マリオ・ベリーニ氏の自宅はミラノの中心地にあり、お伺いした時は昔の大きな貴族の館をファッションデザイナーのアルマーニと半分ずつシェアーし住んでいました。内部は典型的な中世のアーチ型構造の内部空間で天井がフレスコ画ならぬ装飾が施されていてそのデザインはあの有名な女性家具デザイナー、アウレ・ガウレンティーがしたとか。イサム・ノグチの和紙のあかり、提灯が沢山使われていてとてもきれいでした。そのときもお会いし、その後、日本でもお会いした奥さんは典型的なイタリアのお袋ともいえる気さくな人で素晴らしい家庭的な人でした。今は亡くなられてベリーニ氏は若い奥さんと再婚したと聞きました。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() マリオ・ベリーニ氏と日本で ミラノでベリーニ氏の自宅で、1995年 |
![]() ベリーニ氏の自宅 |
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マリオ・ベリーニ氏は1935年、イタリア・ミラノに生まれ、現在75才。1959年ミラノ工科大学、建築科を卒業。カッシーナ社、ドイツ、Vitra社の一連の家具シリーズほか、タイプライター、計算機、自動車の内装、テレビ、ステレオ、照明器具、オフィス家具など幅広く手掛けています。日本では象印の湯沸かしポットや、建築では五反田、駅前にある東京デザインセンター、小淵沢にあるリゾナーレホテル等が知られています。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
イタリアデザインの黄金時代を作った、ベリーニの椅子の特徴は皆デザインが素晴らしいだけでなく座り心地がすごく良いこと。椅子のデザインをやっているとこういう構造だと座り心地が良いと思うポイントがある。ベリー二氏はイタリアの革の技術を最大限に生かして造形に結びつけている。言葉でいうと簡単なように見えるがこれがなかなか出来ない。 |
![]() キャブアームレスチェアー |
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Vitraからは事務用椅子に取り組んでいる。すごいファッショナブル。しかし、最近の事務用椅子はハーマンミラーのアーロンチェアーという巨人がいるのでデザインだけでは追いつかない。技術の裏ずけがハイレベルでないとさすがのベリー二でも苦しいところ。最近は建築の方が好調のようだ。 |
![]() キャブアームチェアー |
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ベリーニ氏の講演会を聞いたときこんな言葉が記憶に残っている。食べ物でイタリア料理以外で他の国の料理を食べますかとの質問に、そうですね、年に2〜3回程は食べるとの答え。どうしてそんなに少ないんですかと質問されると、私はイタリア人だからイタリア料理を食べます。この言葉を聞いたとき日本人はいろんな料理を食べるのを自慢するがむしろおかしいのは日本人の食生活でベリーニ氏の食生活がほんとだろうと。そして日本の街を歩くと細長いペンシルビルを見かけてすごい日本的だとも。イタリアは景観の規制が厳しいので建物の外部より内部の仕事が建築家の仕事に多いとのこと、その点、日本は自由に建物たてられてうらやましいとも。複雑な思いで聞いたこと思い出す。ベリーニ氏の椅子を見るたびそのスケールの大きさ、技術の高さ、そして何よりもイタリアを感じる。我々も、日本の椅子を作らなくてはと思う。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() ブレークチェアー ティルブリーソファ |
![]() デュックソファ |
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![]() ![]() Figura 2 Ypsilon 2011年3月1日 井上 昇 |
![]() ベリーニソファ |
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2011年04月04日(月)
● いすの話-16 |
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いすのデザイナー4:「ニールス・ディフェリエント」
4月は“めげないデザイナー”を紹介します。東日本大震災にめげない意味を込めて。アメリカでも有名なオフェスチェアーのデザイナー、ニールス・ディフェリエント氏です。 |
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ニールス・ディフェリエント氏は現在83歳。今でもアメリカを代表する椅子デザイナーの1人です。ディフェリエント氏はデザイナーとしても名が知られていますが、椅子の人間工学の権威としても知られています。それは、彼が若い時在籍したデザイン事務所と関係があります。クランブルック卒業後、エーロ・サーリネン建築事務所、マルコ・ザヌーソ事務所を経てニューヨークの大手デザイン事務所:ヘンリー・ドレフス事務所に長く在籍します。そこでヒューマンスケール、日本でいう人間工学のことを習得します。そして権威になります。当時のヘンリー・ドレフス事務所は大手デザイン事務所として、飛行機の内装デザイン、自動車、農機具、家電、家具まで幅広くデザインしており、氏もそれらのデザインに深く関わっています。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() アメリカの人間工学 |
![]() 若き日のディフェリエント氏 |
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のちに、1990年代後半50歳頃、ノル社の事務用椅子のデザインを手がける辺りからヘンリー・ドレフス事務所から独立します。1979年、丁度私がクランブルクに留学した頃です。ニールス・ディフェリエント氏はクランブルクの大先輩で、1980年クランブルクのミュージアムでノル社の「デフェリエントチェアー」の椅子展を開催。そのときのパーティーで初めて会いました。アメリカでノル社のデザイナーになるということは特別な意味を持っていて、ディフェリエント氏が一番輝いていた時です。氏が53才、私が36才の時です。それ以後、氏が日本に来た折、人間工学のことで千葉大学で案内したり、ほぼ毎年20年間、シカゴの見本市ネオコンでお会いしたり、クランブルクのOBパーティーなどで親しくおつきあいさせていただいていました。ディフェリエント氏はチャールズ・イームズやビル・スタンプ等のハーマンミラーのデザイナーたちとくらべて目立たないデザイナーです。しかし、そのねばりは半端ではありません。30数年そばで見ていてそのチャレンジ精神にとても勇気づけられるのです。そのねばりは遅咲きのデザイナーというのと関係があるのかもしれません。「ディフェリエントチェアー」はそのベンチが羽田航空で沢山使われているので見覚えある人も多いでしょう。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() ディフェリエントチェアー(ノル社・1983年) |
![]() タンデムチェアー(ノル社) |
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ノル社「ディフェリエントチェアー」をデザインしたのち、カナダの大手家具メーカー、スナー・ハウザーマン社の椅子を多数手がけます。しかしスナーはしばらくして倒産。多くの「スナー・デフェリエントチェアー」は廃番になってしまいます。そしてほどなくノル社の「デフェリエントチェアー」もアメリカでは廃番になってしまいます。精魂込めたおおくの椅子が全部廃番。生産中止になってしまったのです。年齢的には60代後半にあたるこのあたりでデザイナーを隠居するところが一般的ですが、この逆境からが本当のディフェリエント氏のデザイナーとしての面目がでてきます。ノル社を含め大手の家具メーカーはディフェリエント氏に仕事を出しません。過去の人との認識からです。そこでディフェリエント氏はヒューマンスケールという当時としては小さな家具会社と組んでその後、3シリーズの事務用椅子を発表、軌道に乗せます。50代はノル。60代はスナー・ハウザーマン。70代、80代はヒューマンスケール。それらの椅子の作品がこれらです。これからもまだまだチャレンジするでしょう。我々椅子デザイナーの見本たるゆえんです。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() 60歳代にデザインしたスナー・ハウザーマン社の椅子 |
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以前、「アメリカの椅子デザイナーはロイヤルティー契約が結べていいですね。日本ではなかなか同じ契約が結べません。」とディフェリエント氏に言ったところ、こんな風にいわれた。そんなことはない。以前のアメリカもロイヤルティー契約など結べなかった。それをアメリカのデザイナーが協力、努力して今のロイヤルティー契約を結べるようになった。日本でも日本のデザイナーがそういう契約が出来るよう努力すべきだと。そして、あなた(井上)がまずしなさいと。 |
![]() ![]() Humanscale's Freedom Chair |
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![]() ![]() ![]() ディフェリエント氏と筆者(左)Liberty Chair(HS)(中)最近のディフェリエント氏(右) |
![]() Diffrient World Chair(HS) |
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日本に帰国して最初のクライアントの会社とは不可能でした。次のクライアントとの交渉のとき、契約はロイヤルティー契約であることと、椅子のカタログに椅子のデザイナー名(即ち私の名前)を入れることを条件にデザイン契約を結びました。このメーカーとは3タイプの椅子をデザインしましたが、それ以上の仕事はきませんでした。実力がなかったことが大きな理由ですが、もうひとつはロイヤルティー契約を嫌われたことも大きいと思います。残念ながら日本人のデザイナーで、パブリックなどの椅子ではなく、企業の看板商品となる事務用椅子でアメリカと同じ意味のロイヤルティー契約を結んだ日本人デザイナーは多分、私が初めで最後だと思います。それが、間違いであることを望むものです。ロイヤルティー契約が日本で結べないなら、もっと良いことがあります。自分で椅子の製作、販売までやってしまうことです。それが今、私が発売している木製の「腰の椅子」AWAZAチェアーです。やってみてリスクは大きいですが精神的にはとても気持ちがいい。自分で販売まで踏み込んでみて感じたことは、デザイナーがいかに主張ばかりで如何にリスクを取っていなかったか深く反省しているところです。ニールス・ディフェリエント氏にならって、あと20年は椅子のでデザイナーとしてチャレンジしたい。ディフェリエント氏に会ったらぜひそうしろと言われるのがよくわかります。めげないデザイナー、ニールス・ディフェリエント氏に学ぶところはこの「めげない」「ねばり」のスピリッツです。
2011年4月4日 井上 昇 |
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2011年05月06日(金)
● いすの話-17 |
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いすのデザイナー5:「ビル・スタンプ」
1936年、ミズーリー州・セントルイス生まれ |
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今月は椅子のデザイナーの巨人、アメリカの椅子デザイナー、ビル・スタンプ氏をとりあげます。ビル・スタンプ氏はチャールズ・イームズ以後私の最も尊敬する椅子デザイナーで、椅子の革命家、チャレンジャーでした。 |
![]() Bill Stumpf(1936-2006) |
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ビル・スタンプ氏は共同開発者のドン・チャドウイックと共に「アーロンチェアー」のデザイナーとしてとても有名ですが2006年、5年前70歳の時亡くなりました。生まれはチャールズ・イームズと同じセントルイス生まれ。共に70才でなくなっています。不思議です。 |
![]() ハーマンミラー |
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アメリカにおけるチャールズイームズ以後の後継者としてハーマンミラー社の椅子のデザインの方向を決めた人です。イームズと違い、見かけは地味な人でしたが、彼がデザインした椅子はどれも大ベストセラーで、革新的、時代を引っ張って行く魅力的なデザインばかりです。アメリカだけでなく世界を見渡してビル・スタンプ氏程のスケールの大きい、実力ある、影響力あるデザイナーは当分出てこないでしょう。これは私の見解です。私も長年事務用椅子のデザインをやっていましたが、イームズ亡き後、ビル・スタンプ氏と氏がデザインする椅子はあこがれでもありまた目標でした。 |
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ヨーロッパのデザイナーと違ってパワフルなのです。それは事務用椅子の中でも価格的にも高級品に属する「アーロンチェアー」が10年以上にわたって、年間100万台以上も生産され全世界で使われていることでも分かります。現在では全世界の家具メーカーが競って作っているメッシュファブリックの椅子をアーロンチェアーでビル・スタンプ氏がはじめてデザインし、それ以前の椅子を完全に流行遅れの産物にしてしまいました。私がビル・スタンプ氏と直接会って話をすることが出来たのは、シカゴの全米家具見本市、NEOCONでした。シカゴでは毎年、6月の第2週目にシカゴの中心部にあるマーチャンダイズマートビルでこの見本市が開かれます。ハーマンミラー、ノル、スチールケース、ヘイワース、ホン、他アメリカ中のオフイス家具メーカーが常設のショウルームを持っており、この時期に新製品を発表しアメリカばかりでなく世界中からバイヤーが集まります。 |
![]() アクアチェアー ヒューマンエルゴノミクス |
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アメリカのオフィス家具メーカーに取っては年に一度の大切なビジネスイベント。見学者に取っては最新の新製品を見れることと、将来のトレンドを見る大切な見本市なのです。イタリアのミラノ・サローネのオフイス版といって良いでしょう。私はこの展示会にデトロイトに留学中も含めて20年にわたって見に行きました。私にとってビルスタンプ氏はあこがれであり目標でしたから、一度ぜひ直接会って話をしたいとかねがね思っていました。10年前の2001年頃、チャンスが訪れました。クランブルックのクラスメイトの一人であるニューヨークに事務所を構えるエリック・チャンがハーマンミラーのデスクシステムのデザインをしていてネオコンの会場にいた時、ビル・スタンプ氏もいて、エリックに紹介してもらう形で、1対1というよりエリックを介して3人で雑談のような感じで10分間だけ話をすることが出来ました。ビル・スタンプ氏の印象は体のガッチリ大きい知的なオヤジという感じ。10分程の話の内容はたわいない雑談でしたがビル・スタンプ氏は我々にこんなこと言いました。私の時代は終わりかけている。次の時代はあなた方の時代だと。リップサービスであることは明白です。エリックは「彼は引退することなど何も考えていないんだよ。」といっていたのが印象に残っています。椅子のデザイナーは生涯現役なのです。その証拠に彼はその後「エンボディー」というすばらしい椅子をデザインしている途中で亡くなったのでした。彼の死の2年後、ハーマンミラーから発売されました。この椅子も革新的な椅子です。 |
![]() ![]() アクアチェアー |
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シカゴでビル・スタンプ氏と会った時、彼のオフィスを訪問したいというと、どうぞいらっしゃいとの返事。その後、ミネアポリスに在住の友人を訪ねた時、ミネアポリス市内にあるビル・スタンプの事務所を訪問。あいにく当人は不在でしたが娘さんが出てきて事務所を案内してくれました。ビル・スタンプ氏のスタジオはイームズの[109]スタジオと違いもっとパワフルなイメージのビルの1階の大きなスタジオでした。ビル・スタンプ氏はオフィスチェアーのデザインイメージをバッサリ変えてしまったデザイナーでそれ以後誰がどんなデザインしても彼のデザインレベルを超えるのは大変で、唯一、ニールス・ディフェリエント氏のフリーダムチェアーあたりが彼に対抗しえた数少ない椅子だと私は思います。
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ビル・スタンプ氏がこの世を去って私の目標もなくなりました。そして日本で巨額な開発費を要する「アーロンチェアー」を超える椅子をデザインできる可能性がなくなった時、私の事務用椅子をデザインする精神的な意味はなくなってしまいました。しかしその後、新たに日本において最高品質の家庭用木製椅子デザインを開発、提供することの重要さ、大切さに気づき、再チャレンジャーとして自分の目標が明確になり現在に至っています。共に共通なのはエルゴノミクスチェア、日本で言う「椅子の人間工学」を取り入れた健康に良い最高品質の椅子を開発し提供することです。 |
![]() アーゴンヒューマンエルゴノミクス |
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ビル・スタンプ氏の言葉にこんなコメントが残されています。(ハーマンミラー社のホームページから引用)
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