2011年01月01日(土)

● いすの話-13

いすのデザイナー_1「レイ・イームズ」

いすの話も2年目に入りました。今年は私が直接会ったことのあるデザイナーを中心にきままな話をテーマに取り上げます。いすのデザインは楽しいのですが、それだけではありません。事業としても非常に魅力的な分野で、人と人をつなぐ、幸せにする真っ当な素晴らしい事業です。そのことを証明した先輩の話をしていきたいと思います。

● バックナンバー
タイトル
2017年のいすの話
2016年のいすの話
2015年のいすの話
2014年のいすの話
2013年のいすの話
2012年のいすの話
2010年のいすの話
2011年02月01日(火)
「デビッド・ローランド」
2011年03月01日(火)
「マリオ・ベリーニ」
2011年04月04日(月)
「ニールス・ディフェリエント」
2011年05月06日(金)
「ビル・スタンプ」
2011年06月07日(火)
「ブルーノ・マットソン」
2011年07月04日(月)
「ルッド・ティエセン」
2011年08月05日(金)
「ハンス・J・ウエグナー」
2011年09月04日(日)
「ユーロ・クッカプロ」
2011年10月04日(火)
「ドン・アルビンソン」
2011年11月11日(金)
「ジャンカルロ・ピレッティ」
2011年12月08日(木)
「フランク・O・ゲーリー」
チャールズ&レイ・イームズはあまりに有名なので今更というかたも多いでしょう。イームズの魅力は何かというと、その作品の詩的な彫刻的な美しさにあると私は理解しています。作品的には座り心地も完璧。造形と機能が高度なレベルにおいて一致し、事業的にも成功している椅子デザインのパイオニア、希有な例なのです。私もイームズの椅子に出会って、その魅力にみせられ、椅子のデザインにのめり込んだ1人です。イームズ教の熱烈な信者の1人でした。
しかし今は過去形です。それをやめたのはチャールズ・イームズの孫、イームズ・デミオトリオ氏に会ってから。イームズの魅力はその時代に生きた背景とセットであることと、イームズがめざした所をめざすべきということにデミオトリオ氏と会い気ずいたからです。たとえそれが微々たる挑戦であってもそれが本来の形だと。
レイ・イームズ&チャールズ・イームズ
私はイームズに憧れて椅子のデザイナーになった時、岡村製作所の開発部にいて、日本で最初の国産で初のコンピューター用の事務用椅子の開発をしていましたが、その完成をまって会社を辞め、イームズがいたミシガン州にあるクランブルック美術大学院に1979年9月に私費留学しました。34才の時です。のちに家族も合流し2年半、アメリカにいました。その理由は色々ありますが、フリーランスになるにあたって海外を体験すること、それならイームズがいたアメリカ椅子デザインのメッカ、クランブルックが一番と思ったからでした。入学してしばらくして、そのレイ・イームズ自身がクランブルクに来たのです。ハーマンミラー時代のデザインディレクターだったボブ・ブレークと一緒に。前年の1978年チャールズ・イームズは70歳で亡くなったこともあって、1年後の1979年、66歳のとき、数十年ぶりにハーマンミラーの本社があるジーランドを訪ねたあとクランブルクに立ち寄ったのでした。私達クランブルックの卒業生にとって、レイ・イームズは先輩にあたります。つまりレイもクランブルックの学生だったとき、デザイン科の教師だったチャールズ・イームズと出会い、恋に落ち、結婚しカルフォルニアに移ったのです。年齢的に5歳年下です。ですからレイ・イームズにとって、クランブルックは出身母校であり、チャールズ・イームズと出会った青春の思い出の地なのです。
クランブルック・プレス


デトロイト郊外、クランブルック・アカデミー・オブ・アーツ

クランブルックは学生ひとりひとりに24時間オープンの個室スタジオを与えてくれます。そのなつかしいデザイン科のスタジオにレイはきて、私の個室スタジオにも来てくれたのです。トレードマークの黒い修道女のような服に黒いリボンをのせ、小柄で背が低く、それでいてふくよかで、良く通る、どちらかと言えば高音で話します。チャールズ共々、日本が大好き。その折り、日本に帰国するときは、スタジオに来ませんかとお誘いを受けたのです。そして、ミシガンから南回りでドライブし、ロスに来ると良いとアドバイスも頂いて。実際にはデトロイトから飛行機でロスアンジェルスに行きました。そのことをあとでレイからきかれ飛行機できたといったら、ユー、ミスといわれたのです。なんで車で来なかったんだ、途中に素晴らしい所が一杯あったのにと。写真家でもあるレイにとってはネイティブアメリカン等の居住地等を見せたかったのです。現実には超貧乏留学生にとっては車を売ったお金でしか帰国の費用を捻出できなかったのです。
ラウンジ合板チェアー
私はレイ・イームズには3回あっています。1回目はクランブルック、1979年、66歳。2回目はロスアンジェルス郊外、サンタモニカとなりのベニスにある「109」イームズスタジオ訪問時、1982年、69歳。3回目はワシントンDC で開催された世界デザイン会議での時、1986年、74歳。レイ・イームズは1988年76歳でなくなっています。その2年前に一緒に撮ったワシントンDCの時の珍しく白い服をきたレイ・イームズとの写真が記念的写真になりました。2度目の「109スタジオ」訪問時、他の建築の学生共々昼食をごちそうになり、レイ自身に撮ってもらった写真がスタジオを入ってすぐの壁前の写真。後日、手紙とともに日本に送ってきてくれました。そのマメな気ずかいには頭が下がりました。
レイ・イームズに撮ってもらったスタジオ写真
レイ・イームズとの会話の中でこんなこともいっていました。「私は背が低いが、チャールズはあなたとおなじように背が高かった。椅子をデザインする上でそれが、丁度良かったのよ」とも。本当に会いたかった、チャールズ・イームズに会えなかった体験から、会いたいと思うデザイナーには早く会うこと、のちにドイツ出張時にハンス・ウエグナーに会うことにしたのです。
「109」スタジオ、ロスアンジェルス郊外ベニス
イームズ夫妻は生涯で10シリーズの椅子のデザインしかしていません。しかしその10シリーズで60人を超える職員を雇える程の収入を得ています。それがどうして可能だったかというとロイヤルティー契約だったからです。ロイヤルティー契約なしにはたとえアメリカといえども不可能です。デザインビジネスは、特に椅子のデザインビジネスはロイヤルティー契約なしにはなんの魅力もないのです。あと椅子のデザインはその作家のかおり、作風が魅力です。詩的な良きアメリカのおおらかさ豊かさ、個人の資質に裏打ちされた作品のなかに魅力はあるのであって、作家の名前を伏せ、単にお金儲けだけを追求している中からは本当に人を幸せにするデザインは出てこないでしょう。イームズに学ぶことはここにあると私は思います。

       2011年1月1日  井上 昇


1986年ワシントンDCのカンファレンスの時

2011年02月01日(火)

● いすの話-14

いすのデザイナー2:「デビッド・ローランド」

2月はデビッド・ローランドをとりあげます。デビッド・ローランドは800万台以上,生産され、今も作られている、たった1脚の椅子のデザインで、生涯お金持ちのデザイナーとしてアメリカでとても有名な椅子のデザイナーです。昨年、2010年8月13日、86才で亡くなりました。どんな椅子かといいますと、「GF40/4」というスタッキングチェアーです。今ではスチールのスタックングチェアーは沢山ありますがその原型をつくったのはデビッド・ローランドといえるでしょう。いまでもその原型の椅子「GF40/4」はやはり一番すばらしいと私は思います。

● バックナンバー
タイトル
2017年のいすの話
2016年のいすの話
2015年のいすの話
2014年のいすの話
2013年のいすの話
2012年のいすの話
2010年のいすの話
2011年01月01日(土)
「レイ・イームズ」
2011年03月01日(火)
「マリオ・ベリーニ」
2011年04月04日(月)
「ニールス・ディフェリエント」
2011年05月06日(金)
「ビル・スタンプ」
2011年06月07日(火)
「ブルーノ・マットソン」
2011年07月04日(月)
「ルッド・ティエセン」
2011年08月05日(金)
「ハンス・J・ウエグナー」
2011年09月04日(日)
「ユーロ・クッカプロ」
2011年10月04日(火)
「ドン・アルビンソン」
2011年11月11日(金)
「ジャンカルロ・ピレッティ」
2011年12月08日(木)
「フランク・O・ゲーリー」
  「GF40/4」  
David Rowland 1-27-2010             
私がデビッド・ローランドにあったのは1979年10月、ローランド55才の時。ニューヨークの彼のスタジオです。私がクランブルックに入学したのが1979年9月ですが、10月フィールドトリップという授業があって、クラスメイトと一緒にニューヨークに行き、デザインツアーでスタジオ巡りした時にあったのです。デビッド・ローランドはクランブルックの卒業生でレイ・イームズと同じく我々の先輩にあたります。それだけに我々がスタジオに訪ねたことにとても喜んでくれました。
デビッド・ローランドは1924年ロスアンジェルスで生まれました。第2次大戦ではヨーロッパ戦線で空軍に在籍。戦後、1949年、25才でイリノイ州のPrincipia College を卒業後、ミシガン州のクランブルックに入学、27才の1951年、修士卒業。その当時、クランブルックにはエーロ・サリネンが建築科、ハリーベルトイアが彫刻科の教授、フロレンス・ノル等も活動していて、大きな影響を受けていたはずです。クランブルックが一番輝いた1950年代に在籍しているのです。

デビッド・ローランド 1979年10月
卒業後、ニューヨークに出てデザイン事務所で働いたのち独立。1963年39才の時、チャンスが訪れます。当時、シカゴにあった大手建築事務所、スキッドモア・オーイングス&メリルのプロジェクトでシカゴ大学で使われる17,000台の椅子をデザインするチャンスに出会います。試作20脚以上経て、4フィートの中に40脚スタッキング出来る椅子、「GF40/4」を完成します。1フィート=12インチ=30.48cmですから4×30.48cm=約122cm。高さ122cmの中に脚部、背の支持部を入れて40脚を積み重ねる。椅子のサイズが
   巾600mm×奥行520mm×高さ760mm
   122cm-76cm=46cm÷40=1.15cm。

ニューヨーク、フィールドトリップ
つまり11.5mmに1脚の椅子がスタッキングできる椅子をデザインしたのです。写真みていただければわかりますが、省スペースで沢山の椅子を収納出来る椅子それが「GF40/4」なのです。「GF40/4」のオリジナルは座面、背面とも鉄板で出来ています。座るとひんやりします。日本と違いアメリカは乾燥していますからサビがつく心配がありません。今では合板のものやプラスチックの座・背のバージョン、アームチェア−が出ています。アメリカには日本と違って大きな軍隊があります。この鉄板製の燃えない、省スペースで大量に収納出来る「GF40/4」は、航空母艦や軍艦、ホール等にも数多く使われ大ヒットします。デビッド・ローランドはその後、いろいろなスタッキングチェアーをデザインしますが成功しませんでした。結果としてたった一つの椅子で成功し、大金持ちになった幸運な椅子デザイナーとしてデザイン史に名を残すことになりました。「GF40/4」はアメリカンデザインのパイオニアの椅子のひとつです。
今はデンマークの家具会社HOWEで「40/4」として、プラスチックの座・背のバージョン、アームチェア−を発売、日本ではセンプレデザインで買うことができます。ちなみにセンプレデザインのオーナー、田村昌紀さんもクランブルックの出身です。
HOWE 40/4
デビッド・ローランドは背が高くダンディー、穏やかな話し方をする人で、私はその後シカゴの家具見本市で何度かあいました。私のことよく覚えていてくれて「40/4」を日本で発売することに心砕いていました。アメリカの椅子ビジネスはロイヤルティービジネスであるということもその背景にあります。デザイナーはセールスマンでもあります。椅子デザインはビジネスであり、それは反面ビジネスマインドのないデザイナーは椅子のデザイナーに向いていないということでしょう。静かな白髪の椅子デザイナー、デビッド・ローランドから教えられたことはそのことでした。
    
            Thonet Sof-Tech Collection

           2011年2月1日    井上 昇

2011年03月01日(火)

● いすの話-15

いすのデザイナー3:「マリオ・ベリーニ」

3月はイタリアのマリオ・ベリーニ氏をとりあげます。マリオ・ベリー二氏はイタリアで数多い椅子のデザイナーの中でもエットレ・ソットサスや近年亡くなったジコ・マジストレッティー等と並んで巨匠中の巨匠の1人だと私はみています。建築の方でも有名ですが工業デザイン、家具のデザインでもとても魅力的な作品を手がけています。

● バックナンバー
タイトル
2017年のいすの話
2016年のいすの話
2015年のいすの話
2014年のいすの話
2013年のいすの話
2012年のいすの話
2010年のいすの話
2011年01月01日(土)
「レイ・イームズ」
2011年02月01日(火
「デビッド・ローランド」
2011年04月04日(月)
「ニールス・ディフェリエント」
2011年05月06日(金)
「ビル・スタンプ」
2011年06月07日(火)
「ブルーノ・マットソン」
2011年07月04日(月)
「ルッド・ティエセン」
2011年08月05日(金)
「ハンス・J・ウエグナー」
2011年09月04日(日)
「ユーロ・クッカプロ」
2011年10月04日(火)
「ドン・アルビンソン」
2011年11月11日(金)
「ジャンカルロ・ピレッティ」
2011年12月08日(木)
「フランク・O・ゲーリー」
学生時代から長年イタリアの雑誌でみかける雲の上の存在だったマリオ・ベリーニ氏とお会いしたのは15年前、インターオフイスの原田社長とミラノのオフィスと自宅にお伺いしてからです。すごく気さくな方です。日本にもよく来られていて、パーティー会場でその後、時々お会いする機会があり挨拶すると、私のことよく覚えていてくれて恐縮するばかり。ここでも大物は優しいという共通項を感じます。ミラノで訪ねた、マリオ・ベリーニ氏の自宅はミラノの中心地にあり、お伺いした時は昔の大きな貴族の館をファッションデザイナーのアルマーニと半分ずつシェアーし住んでいました。内部は典型的な中世のアーチ型構造の内部空間で天井がフレスコ画ならぬ装飾が施されていてそのデザインはあの有名な女性家具デザイナー、アウレ・ガウレンティーがしたとか。イサム・ノグチの和紙のあかり、提灯が沢山使われていてとてもきれいでした。そのときもお会いし、その後、日本でもお会いした奥さんは典型的なイタリアのお袋ともいえる気さくな人で素晴らしい家庭的な人でした。今は亡くなられてベリーニ氏は若い奥さんと再婚したと聞きました。
     
マリオ・ベリーニ氏と日本で          ミラノでベリーニ氏の自宅で、1995年

ベリーニ氏の自宅
マリオ・ベリーニ氏は1935年、イタリア・ミラノに生まれ、現在75才。1959年ミラノ工科大学、建築科を卒業。カッシーナ社、ドイツ、Vitra社の一連の家具シリーズほか、タイプライター、計算機、自動車の内装、テレビ、ステレオ、照明器具、オフィス家具など幅広く手掛けています。日本では象印の湯沸かしポットや、建築では五反田、駅前にある東京デザインセンター、小淵沢にあるリゾナーレホテル等が知られています。
イタリアデザインの黄金時代を作った、ベリーニの椅子の特徴は皆デザインが素晴らしいだけでなく座り心地がすごく良いこと。椅子のデザインをやっているとこういう構造だと座り心地が良いと思うポイントがある。ベリー二氏はイタリアの革の技術を最大限に生かして造形に結びつけている。言葉でいうと簡単なように見えるがこれがなかなか出来ない

キャブアームレスチェアー
Vitraからは事務用椅子に取り組んでいる。すごいファッショナブル。しかし、最近の事務用椅子はハーマンミラーのアーロンチェアーという巨人がいるのでデザインだけでは追いつかない。技術の裏ずけがハイレベルでないとさすがのベリー二でも苦しいところ。最近は建築の方が好調のようだ

キャブアームチェアー
ベリーニ氏の講演会を聞いたときこんな言葉が記憶に残っている。食べ物でイタリア料理以外で他の国の料理を食べますかとの質問に、そうですね、年に2〜3回程は食べるとの答え。どうしてそんなに少ないんですかと質問されると、私はイタリア人だからイタリア料理を食べます。この言葉を聞いたとき日本人はいろんな料理を食べるのを自慢するがむしろおかしいのは日本人の食生活でベリーニ氏の食生活がほんとだろうと。そして日本の街を歩くと細長いペンシルビルを見かけてすごい日本的だとも。イタリアは景観の規制が厳しいので建物の外部より内部の仕事が建築家の仕事に多いとのこと、その点、日本は自由に建物たてられてうらやましいとも。複雑な思いで聞いたこと思い出す。ベリーニ氏の椅子を見るたびそのスケールの大きさ、技術の高さ、そして何よりもイタリアを感じる。我々も、日本の椅子を作らなくてはと思う。
    
ブレークチェアー            ティルブリーソファ

デュックソファ
       
Figura 2                 Ypsilon

2011年3月1日    井上 昇

ベリーニソファ

2011年04月04日(月)

● いすの話-16

いすのデザイナー4:「ニールス・ディフェリエント」

4月は“めげないデザイナー”を紹介します。東日本大震災にめげない意味を込めて。アメリカでも有名なオフェスチェアーのデザイナー、ニールス・ディフェリエント氏です。

● バックナンバー
タイトル
2017年のいすの話
2016年のいすの話
2015年のいすの話
2014年のいすの話
2013年のいすの話
2012年のいすの話
2010年のいすの話
2011年01月01日(土)
「レイ・イームズ」
2011年02月01日(火)
「デビッド・ローランド」
2011年03月01日(火)
「マリオ・ベリーニ」
2011年05月06日(金)
「ビル・スタンプ」
2011年06月07日(火)
「ブルーノ・マットソン」
2011年07月04日(月)
「ルッド・ティエセン」
2011年08月05日(金)
「ハンス・J・ウエグナー」
2011年09月04日(日)
「ユーロ・クッカプロ」
2011年10月04日(火)
「ドン・アルビンソン」
2011年11月11日(金)
「ジャンカルロ・ピレッティ」
2011年12月08日(木)
「フランク・O・ゲーリー」
ニールス・ディフェリエント氏は現在83歳。今でもアメリカを代表する椅子デザイナーの1人です。ディフェリエント氏はデザイナーとしても名が知られていますが、椅子の人間工学の権威としても知られています。それは、彼が若い時在籍したデザイン事務所と関係があります。クランブルック卒業後、エーロ・サーリネン建築事務所、マルコ・ザヌーソ事務所を経てニューヨークの大手デザイン事務所:ヘンリー・ドレフス事務所に長く在籍します。そこでヒューマンスケール、日本でいう人間工学のことを習得します。そして権威になります。当時のヘンリー・ドレフス事務所は大手デザイン事務所として、飛行機の内装デザイン、自動車、農機具、家電、家具まで幅広くデザインしており、氏もそれらのデザインに深く関わっています。
     
アメリカの人間工学           

若き日のディフェリエント氏
のちに、1990年代後半50歳頃、ノル社の事務用椅子のデザインを手がける辺りからヘンリー・ドレフス事務所から独立します。1979年、丁度私がクランブルクに留学した頃です。ニールス・ディフェリエント氏はクランブルクの大先輩で、1980年クランブルクのミュージアムでノル社の「デフェリエントチェアー」の椅子展を開催。そのときのパーティーで初めて会いました。アメリカでノル社のデザイナーになるということは特別な意味を持っていて、ディフェリエント氏が一番輝いていた時です。氏が53才、私が36才の時です。それ以後、氏が日本に来た折、人間工学のことで千葉大学で案内したり、ほぼ毎年20年間、シカゴの見本市ネオコンでお会いしたり、クランブルクのOBパーティーなどで親しくおつきあいさせていただいていました。ディフェリエント氏はチャールズ・イームズやビル・スタンプ等のハーマンミラーのデザイナーたちとくらべて目立たないデザイナーです。しかし、そのねばりは半端ではありません。30数年そばで見ていてそのチャレンジ精神にとても勇気づけられるのです。そのねばりは遅咲きのデザイナーというのと関係があるのかもしれません。「ディフェリエントチェアー」はそのベンチが羽田航空で沢山使われているので見覚えある人も多いでしょう。
         
         ディフェリエントチェアー(ノル社・1983年)

タンデムチェアー(ノル社)
ノル社「ディフェリエントチェアー」をデザインしたのち、カナダの大手家具メーカー、スナー・ハウザーマン社の椅子を多数手がけます。しかしスナーはしばらくして倒産。多くの「スナー・デフェリエントチェアー」は廃番になってしまいます。そしてほどなくノル社の「デフェリエントチェアー」もアメリカでは廃番になってしまいます。精魂込めたおおくの椅子が全部廃番。生産中止になってしまったのです。年齢的には60代後半にあたるこのあたりでデザイナーを隠居するところが一般的ですが、この逆境からが本当のディフェリエント氏のデザイナーとしての面目がでてきます。ノル社を含め大手の家具メーカーはディフェリエント氏に仕事を出しません。過去の人との認識からです。そこでディフェリエント氏はヒューマンスケールという当時としては小さな家具会社と組んでその後、3シリーズの事務用椅子を発表、軌道に乗せます。50代はノル。60代はスナー・ハウザーマン。70代、80代はヒューマンスケール。それらの椅子の作品がこれらです。これからもまだまだチャレンジするでしょう。我々椅子デザイナーの見本たるゆえんです。
    
60歳代にデザインしたスナー・ハウザーマン社の椅子
以前、「アメリカの椅子デザイナーはロイヤルティー契約が結べていいですね。日本ではなかなか同じ契約が結べません。」とディフェリエント氏に言ったところ、こんな風にいわれた。そんなことはない。以前のアメリカもロイヤルティー契約など結べなかった。それをアメリカのデザイナーが協力、努力して今のロイヤルティー契約を結べるようになった。日本でも日本のデザイナーがそういう契約が出来るよう努力すべきだと。そして、あなた(井上)がまずしなさいと。
 
Humanscale's
Freedom Chair
   
ディフェリエント氏と筆者(左)Liberty Chair(HS)(中)最近のディフェリエント氏(右)

Diffrient World Chair(HS)
日本に帰国して最初のクライアントの会社とは不可能でした。次のクライアントとの交渉のとき、契約はロイヤルティー契約であることと、椅子のカタログに椅子のデザイナー名(即ち私の名前)を入れることを条件にデザイン契約を結びました。このメーカーとは3タイプの椅子をデザインしましたが、それ以上の仕事はきませんでした。実力がなかったことが大きな理由ですが、もうひとつはロイヤルティー契約を嫌われたことも大きいと思います。残念ながら日本人のデザイナーで、パブリックなどの椅子ではなく、企業の看板商品となる事務用椅子でアメリカと同じ意味のロイヤルティー契約を結んだ日本人デザイナーは多分、私が初めで最後だと思います。それが、間違いであることを望むものです。ロイヤルティー契約が日本で結べないなら、もっと良いことがあります。自分で椅子の製作、販売までやってしまうことです。それが今、私が発売している木製の「腰の椅子」AWAZAチェアーです。やってみてリスクは大きいですが精神的にはとても気持ちがいい。自分で販売まで踏み込んでみて感じたことは、デザイナーがいかに主張ばかりで如何にリスクを取っていなかったか深く反省しているところです。ニールス・ディフェリエント氏にならって、あと20年は椅子のでデザイナーとしてチャレンジしたい。ディフェリエント氏に会ったらぜひそうしろと言われるのがよくわかります。めげないデザイナー、ニールス・ディフェリエント氏に学ぶところはこの「めげない」「ねばり」のスピリッツです。

2011年4月4日    井上 昇


2011年05月06日(金)

● いすの話-17

いすのデザイナー5:「ビル・スタンプ」

1936年、ミズーリー州・セントルイス生まれ
正式名:William Eugene "Bill" Stumpf
    (March 1,1936〜August 30, 2006)

● バックナンバー
タイトル
2017年のいすの話
2016年のいすの話
2015年のいすの話
2014年のいすの話
2013年のいすの話
2012年のいすの話
2010年のいすの話
2011年01月01日(土)
「レイ・イームズ」
2011年02月01日(火)
「デビッド・ローランド」
2011年03月01日(火)
「マリオ・ベリーニ」
2011年04月04日(月)
「ニールス・ディフェリエント」
2011年06月07日(火)
「ブルーノ・マットソン」
2011年07月04日(月)
「ルッド・ティエセン」
2011年08月05日(金)
「ハンス・J・ウエグナー」
2011年09月04日(日)
「ユーロ・クッカプロ」
2011年10月04日(火)
「ドン・アルビンソン」
2011年11月11日(金)
「ジャンカルロ・ピレッティ」
2011年12月08日(木)
「フランク・O・ゲーリー」
今月は椅子のデザイナーの巨人、アメリカの椅子デザイナー、ビル・スタンプ氏をとりあげます。ビル・スタンプ氏はチャールズ・イームズ以後私の最も尊敬する椅子デザイナーで、椅子の革命家、チャレンジャーでした。

Bill Stumpf(1936-2006)
ビル・スタンプ氏は共同開発者のドン・チャドウイックと共に「アーロンチェアー」のデザイナーとしてとても有名ですが2006年、5年前70歳の時亡くなりました。生まれはチャールズ・イームズと同じセントルイス生まれ。共に70才でなくなっています。不思議です。

ハーマンミラー
アメリカにおけるチャールズイームズ以後の後継者としてハーマンミラー社の椅子のデザインの方向を決めた人です。イームズと違い、見かけは地味な人でしたが、彼がデザインした椅子はどれも大ベストセラーで、革新的、時代を引っ張って行く魅力的なデザインばかりです。アメリカだけでなく世界を見渡してビル・スタンプ氏程のスケールの大きい、実力ある、影響力あるデザイナーは当分出てこないでしょう。これは私の見解です。私も長年事務用椅子のデザインをやっていましたが、イームズ亡き後、ビル・スタンプ氏と氏がデザインする椅子はあこがれでもありまた目標でした。
アーゴンチェアー(1976)
ヨーロッパのデザイナーと違ってパワフルなのです。それは事務用椅子の中でも価格的にも高級品に属する「アーロンチェアー」が10年以上にわたって、年間100万台以上も生産され全世界で使われていることでも分かります。現在では全世界の家具メーカーが競って作っているメッシュファブリックの椅子をアーロンチェアーでビル・スタンプ氏がはじめてデザインし、それ以前の椅子を完全に流行遅れの産物にしてしまいました。私がビル・スタンプ氏と直接会って話をすることが出来たのは、シカゴの全米家具見本市、NEOCONでした。シカゴでは毎年、6月の第2週目にシカゴの中心部にあるマーチャンダイズマートビルでこの見本市が開かれます。ハーマンミラー、ノル、スチールケース、ヘイワース、ホン、他アメリカ中のオフイス家具メーカーが常設のショウルームを持っており、この時期に新製品を発表しアメリカばかりでなく世界中からバイヤーが集まります。

アクアチェアー
ヒューマンエルゴノミクス
アメリカのオフィス家具メーカーに取っては年に一度の大切なビジネスイベント。見学者に取っては最新の新製品を見れることと、将来のトレンドを見る大切な見本市なのです。イタリアのミラノ・サローネのオフイス版といって良いでしょう。私はこの展示会にデトロイトに留学中も含めて20年にわたって見に行きました。私にとってビルスタンプ氏はあこがれであり目標でしたから、一度ぜひ直接会って話をしたいとかねがね思っていました。10年前の2001年頃、チャンスが訪れました。クランブルックのクラスメイトの一人であるニューヨークに事務所を構えるエリック・チャンがハーマンミラーのデスクシステムのデザインをしていてネオコンの会場にいた時、ビル・スタンプ氏もいて、エリックに紹介してもらう形で、1対1というよりエリックを介して3人で雑談のような感じで10分間だけ話をすることが出来ました。ビル・スタンプ氏の印象は体のガッチリ大きい知的なオヤジという感じ。10分程の話の内容はたわいない雑談でしたがビル・スタンプ氏は我々にこんなこと言いました。私の時代は終わりかけている。次の時代はあなた方の時代だと。リップサービスであることは明白です。エリックは「彼は引退することなど何も考えていないんだよ。」といっていたのが印象に残っています。椅子のデザイナーは生涯現役なのです。その証拠に彼はその後「エンボディー」というすばらしい椅子をデザインしている途中で亡くなったのでした。彼の死の2年後、ハーマンミラーから発売されました。この椅子も革新的な椅子です。

アクアチェアー
シカゴでビル・スタンプ氏と会った時、彼のオフィスを訪問したいというと、どうぞいらっしゃいとの返事。その後、ミネアポリスに在住の友人を訪ねた時、ミネアポリス市内にあるビル・スタンプの事務所を訪問。あいにく当人は不在でしたが娘さんが出てきて事務所を案内してくれました。ビル・スタンプ氏のスタジオはイームズの[109]スタジオと違いもっとパワフルなイメージのビルの1階の大きなスタジオでした。ビル・スタンプ氏はオフィスチェアーのデザインイメージをバッサリ変えてしまったデザイナーでそれ以後誰がどんなデザインしても彼のデザインレベルを超えるのは大変で、唯一、ニールス・ディフェリエント氏のフリーダムチェアーあたりが彼に対抗しえた数少ない椅子だと私は思います。
ビル・スタンプ氏
ビル・スタンプ氏がこの世を去って私の目標もなくなりました。そして日本で巨額な開発費を要する「アーロンチェアー」を超える椅子をデザインできる可能性がなくなった時、私の事務用椅子をデザインする精神的な意味はなくなってしまいました。しかしその後、新たに日本において最高品質の家庭用木製椅子デザインを開発、提供することの重要さ、大切さに気づき、再チャレンジャーとして自分の目標が明確になり現在に至っています。共に共通なのはエルゴノミクスチェア、日本で言う「椅子の人間工学」を取り入れた健康に良い最高品質の椅子を開発し提供することです。

アーゴンヒューマンエルゴノミクス
ビル・スタンプ氏の言葉にこんなコメントが残されています。(ハーマンミラー社のホームページから引用)

「デザインはジャズのようでなければならない。改善し発見し、人生の喜びや苦しみをブレンドして、何かすばらしいものに作り上げる」

「私は崖淵に立ったとき、自分の鼻っ柱を折られそうになったとき、そして再び無垢になれたとき一番働けます。ハーマンミラーは、私をそんな風に追い詰める 方法を知っています。D.J.DePree(ハーマンミラーの創業者)が最初に私に話してから何年も経ちますが、この会社は今だに『グッドデザインは単なる儲かるビジネスではなく、 グッドデザインはモラル上の義務である』ということを信じているからです。これはプレッシャーです。」

スタンプの闘いは、実際には1960年代に始まりました。「全てはあのウイスコンシン大学時代に戻ります。」大学の環境デザイン・センターで研究をし、また教えていた助手時代に触れながらこう述べています


アーロンチェアー
「全て束縛を取り払うようなデザインをして、体を解放することについてでした。」整形外科や血管系医学の専門家達と研究をし、人々の座り方、そしていかに座るべきかをスタンプが広く研究したのはそこでした。1974年、ハーマンミラーは彼にその研究をオフィス・シーティングに適用する仕事を任命しました。そして2年後、エルゴノミグスチェアーの先駆けであるアーゴンチェアーが導入されました

2011年5月6日   井上 昇


エンボディチェアー

2011年06月07日(火)

● いすの話-18

いすのデザイナー6:「ブルーノ・マットソン」

ブルーノ・マットソン
Bruno Mathsson
1907 - 1988

● バックナンバー
タイトル
2017年のいすの話
2016年のいすの話
2015年のいすの話
2014年のいすの話
2013年のいすの話
2012年のいすの話
2010年のいすの話
2011年01月01日(土)
「レイ・イームズ」
2011年02月01日(火)
「デビッド・ローランド」
2011年03月01日(火)
「マリオ・ベリーニ」
2011年04月04日(月)
「ニールス・ディフェリエント」
2011年05月06日(金)
「ビル・スタンプ」
2011年07月04日(月)
「ルッド・ティエセン」
2011年08月05日(金)
「ハンス・J・ウエグナー」
2011年09月04日(日)
「ユーロ・クッカプロ」
2011年10月04日(火)
「ドン・アルビンソン」
2011年11月11日(金)
「ジャンカルロ・ピレッティ」
2011年12月08日(木)
「フランク・O・ゲーリー」
「いすの話」6月はスウェーデンの代表的椅子デザイナー、ブルーノ・マットソンを取り上げます。ブルーノ・マットソンは家具職人の家系の6代目として1907年、スウェーデン・ベルナモにて生まれました。父親の5代目家具職人カール・マットソンにデザイナーとして鍛えられます。

Bruno Mathsson(1907-1988)
ブルーノ・マットソンは建築の学校で建築をも学び、建築家でもあります。1945年から58年ごろは建築に多くの力を注いだ時期もありますが、故郷ベルナモで家具ビジネスを営み、自分がデザインした多くの椅子やテーブルなどを生産するに至ります。

マットソンのアイデアスケッチ
ブルーノ・マットソンの椅子は天童木工でも生産され、「MAシリーズ」として日本においても人気商品の椅子なので馴染み深いと思います。今回は、天童木工の椅子はさておき、椅子のデザイナーとして私が感じたブルーノ・マットソンの素晴らしさを述べたくて取り上げました。その素晴らしさの第一はその椅子のデザインですが、他の椅子のデザイナーと決定的に違うものをブルーノ・マットソンは持っています。それは親の代から受け継がれたとはいえマットソン氏は家具工場を持っていて自分でデザインしたものを自分で作って販売した企業家でなのです。このことが今回のテーマです。私がブルーノ・マットソンとお会いしたのが天童木工のセミナーでした。1974年に初めて日本を訪れ、天童木工がマットソンの椅子を生産することになり日本の畳の部屋に合うようすり足をつけたリデザインした椅子を発表します。
その展示発表会をかねてセミナーを開いたのでした。マットソン67歳、私が30歳の時でした。私の美術大学の同級生である藤川氏が天童木工の担当でした。私も以前からマットソンの椅子の魅力に強く引きつけられていたこともあってセミナーに参加し、マットソンの話を聞くことが出来ました。はっきり覚えています。マットソンの容貌はまさにここに紹介するラフで気さくなおじいさんでした。マットソンの椅子は写真でもみても解るとおり細い成形合板のフレームをくねくねと曲げて成形した木にベルトを組んだシンプルな形が基本です。
ダイニングからラウンジチェアー迄、沢山デザインしています。スケッチにもあるように人間の体のカーブをそのまま取り入れ、人間工学の基本に忠実で、形がそのままデザインに移行しています。マットソンチェアーの魅力はその優雅なカーブにあります。シンプルでありながらとてもナチュラルでエレガント、そして丈夫なのです。その意味で、日本の部屋に合わせてすり足をつけた椅子は、マットソンチェアーとは本来の造形的エレガンスとは違い無理を感じます。私はあまり好きではありません。
(株)天童木工「MAシリーズ」
私がマットソンチェアーの中で一番好きな形は白いムートンでカバーされた足台付きラウンジチェアーです。なんとエレガントではありませんか。色気があります。座ってみたい、引きつける魅力、見ていても美しく軽い。良い椅子に必要な要素総て持っています。革張りはさらに豪華。これらの椅子を自分でデザインし、自分の工場で作り、自分で販売していました。この姿勢は椅子デザイナーにとって理想的です。どういうことか解りますか。自分で作るということは誰にも邪魔されず、少しずつ改良することが他人に気兼ねなく出来ること、アイデアをすぐ実験出来ること。お客の要望を取り入れながら完成度を上げることができる。
さらに経済的に自立、独立しているのです。この自由があるのです。椅子のデザイナーは沢山いますがこういう自由度の環境を持った椅子デザイナーは世界広しといえども滅多にいません。チャールズ・イームズでさえも終わり頃はクライアントとの関係がうまく行かず悔しい思いをしています。メーカーは常に収益を優先しますから会社と担当ディレクターの思惑が時間の経過と共にデザイナーの希望に添うことがないことが一般的です。つまり、デザイナーが良いと思っても形にすることが出来ない場合が多いのが現実です。その意味でマットソンは特別なのです。
私の大好きなブルーノ・マットソンはそこなのです。自分で売るから生産中止はありません。そして、そのように開発されたマットソンの椅子は現在も売れ続けています。伸び伸びと楽しんで作った椅子が、ユーザーにとっても楽しくないわけがありません。ブルーノ・マットソンは1988年81才で亡くなりました。残念ながらマットソンには7代目となるお子さんがいませんでした。現在、マットソンの椅子はブルーノ・マットソン インターナショナルという財団に引き継がれています。
Bruno Mathsson International

www.scandinaviandesign.com/bruno-mathsson-int/

写真は「Bruno Mathsson International」と(株)天童木工よりの引用です

2011年6月7日  井上 昇 フリッツハンセン
「スーパー楕円テーブル」

2011年07月04日(月)

● いすの話-19

いすのデザイナー7:「ルッド・ティエセン」

Rud Thygesen (1932 - )

● バックナンバー
タイトル
2017年のいすの話
2016年のいすの話
2015年のいすの話
2014年のいすの話
2013年のいすの話
2012年のいすの話
2010年のいすの話
2011年01月01日(土)
「レイ・イームズ」
2011年02月01日(火)
「デビッド・ローランド」
2011年03月01日(火)
「マリオ・ベリーニ」
2011年04月04日(月)
「ニールス・ディフェリエント」
2011年05月06日(金)
「ビル・スタンプ」
2011年06月07日(火)
「ブルーノ・マットソン」
2011年08月05日(金)
「ハンス・J・ウエグナー」
2011年09月04日(日)
「ユーロ・クッカプロ」
2011年10月04日(火)
「ドン・アルビンソン」
2011年11月11日(金)
「ジャンカルロ・ピレッティ」
2011年12月08日(木)
「フランク・O・ゲーリー」
7月はデンマークの家具デザイナー、ルッド・ティエセン(1932〜)を取り上げます。ルッド・ティエセンはジョニーソーレンセン(1944〜)との2人組でデンマークで成功した家具デザイナーの1人です。

ルッド・ティエセン(左)
ジョンー・ソーレンセン(右)
ビジネス的にはその作品の質の高さ、斬新さや数の多さなどで一時期、ハンス・ウエグナーを超える成功をおさめた時があるように私はみていました。彼らは2人組ですが、ルッド・ティエセンはジョニー・ソーレンセンJohnny Sorensen (1944〜)より12才も年上なのと性格が外交的なのでルッド・ティエセンがとても目立っています。

King's Chair (Botium)1969
私がルッド・ティエセンにお会いしたのがコペンハーゲンの家具のショウルームで有名なベラ・センター内でした。ベラ・センターはスカンジナビア家具フェアーが毎年開かれることでも有名ですが、シカゴのマーチャンダイズマートビルと同じく、北欧家具メーカーのショールームが沢山あります。私がお会いした時期はハンス・ウエグナーとお会いした同じ時、1992年の秋の11月5日ですから今からもう19年前になります。ルッド・ティエセンが60才の時。ハンス・ウエグナーにあったあとベラセンターを訪ねショウルーム巡りをしていましたら、静かなセンターの中でひときわ人が集まっているところがありました。近寄ってみると中にルッド・ティエセンと10数人の学生が集まっていて何かのセレモ二ーが行われているようでした。

キングスチェアースケッチ
(1968年コンペ案)
そこは、ルッド・ティエセンの家具が沢山おいてある、マグナス・オールセン社(Nagnus Olesen)のショウルームでした。私はまさか当人に会えるとも思わなかったので、しばらく待ってから挨拶しました。とても気さくな方で、日本から来たことがわかると自分の家具の説明をして下さり日本での再会を約して別れました。
別れ際、彼の作品の日本語訳の本が1991年に出版され、サイン付きで1冊いただき、サインしてもらったのが顔写真のサインです。というのはその時点で、日本のスウエーデンセンターでマグナス・オールセン社を含めた北欧の家具の展示会がロイヤルファニチュア社主催で企画、来日することが決まっていて、その後、スウエーデンセンターで再会しました。
マグナス・オールセン社2000シリーズ
ルッド・ティエセンは1932年に生まれ父親は建築家。1955年、23才の時、コペンハーゲンにあるインテリア会社で販売の教育をうけ、その後、現代の住まい社に転職。そこではハンス・ウエグナー、フィン・ユール、ボーエ・モーエンセン等の家具を販売していて家具販売の流通の知識も得た後、自分でもデザインに挑戦。1961年木製ベッドのデザインを工芸協会主催の展示界で発表したのが評判になります。
マグナス・オールセン社8000シリーズ
その後、美術工芸大学の学部長に才能が認められ1963年、31才の時大学に入学します。かなり遅い入学です。1966年、34才の時、首席で卒業。その時の同級生が12才年下のパートナー、ジョニー・ソーレンセン。1969年、コペンハーゲン家具組合主催「あなたの部屋の家具」コンペで、ソーレンセンと2人で出品した応募案が82案の中で1等賞を獲得。幸運なことに、その椅子が家具職人によって製作され、1969年3月にデンマーク国王、70才の誕生日の記念として贈られます。「キングの椅子」としての評価と生産が始まる幸運なスタートを切ります。
マグナス・オールセン社 Twinシリーズ
その後、1969年にマグナス・オールセン社と組み次々と名作を発表。私にとって1972年のスタッキングチェアーは衝撃的でした。強く印象に残っています。1981年スタッキングチェアー8000シリーズを発表。木製デスク、収納家具、カウンターなどはエリック・ボイセン社と組み、ボチウム社から発売。勢いがとまることありません。ルッド・ティエセンとジョニー・ソーレンセンの椅子、家具はハンス・ウエグナーやフィン・ユールなどの工芸家具デザイナーの椅子に比べてよりインダストリアルデザイナーとして合理的な方向を目指しました。

マグナス・オールセン社
Swingerシリーズ
それには2つの理由があります。ルッド・ティエセンとジョニー・ソーレンセンの椅子は家庭向けというより、公共空間向け、パブリック用家具の椅子です。家具会社が大きくなろうとすれば、販売をのばそうとすれば家庭用よりオフィス、パブリック向けにならざるを得ません。欧米のように家具をロイヤルティーで払う習慣の国では、家具デザイナーも家具メーカーも、数量が売れるタイプの椅子に志向がいくのは当然の流れでそれは日本でも変わりません。

最近のルッド・ティエセン
ルッド・ティエセンが、積層合板にこだわるのは生産性にすぐれ大量生産に向いているからです。しかし、工業デザインとしての椅子の宿命として流行に左右されるという側面があります。それは、ルッド・ティエセンとジョニー・ソーレンセンのすばらしい椅子も例外ではありません。流行を追いかける椅子、数が沢山売れる椅子ほど流行が過ぎると共に一部の例外を除いてほとんどが消えていく運命に左右されます。これが工芸家具デザイナーの椅子とインダストリアルデザイナーの椅子との違いでしょうか。一時はハンス・ウエグナーやフィン・ユールをはるかにしのぐ成功を納めたルッド・ティエセンとジョニー・ソーレンセンの椅子は今はあまり見かけません。しかし、工芸家具デザイナーと呼ばれる作家達の椅子は変わらぬ人気を保ち、今も数は少ないながら市場から消えることはありません。ここからの教訓は、流行を追うものは消えていく可能性が高いということです。流行を超える完成度の高いタイムレスの椅子のみ、時代を超えて生き残る。どちらを選択するかは各自の自由です。
2011年7月4日    井上 昇

2011年08月05日(金)

● いすの話-20

いすのデザイナー8:「ハンス・J・ウエグナー」

Hans Jorgensen Wegner (1914 〜2007 )

● バックナンバー
タイトル
2017年のいすの話
2016年のいすの話
2015年のいすの話
2014年のいすの話
2013年のいすの話
2012年のいすの話
2010年のいすの話
2011年01月01日(土)
「レイ・イームズ」
2011年02月01日(火)
「デビッド・ローランド」
2011年03月01日(火)
「マリオ・ベリーニ」
2011年04月04日(月)
「ニールス・ディフェリエント」
2011年05月06日(金)
「ビル・スタンプ」
2011年06月07日(火)
「ブルーノ・マットソン」
2011年07月04日(月)
「ルッド・ティエセン」
2011年09月04日(日)
「ユーロ・クッカプロ」
2011年10月04日(火)
「ドン・アルビンソン」
2011年11月11日(金)
「ジャンカルロ・ピレッティ」
2011年12月08日(木)
「フランク・O・ゲーリー」
8月はデンマークの家具デザイナー、ハンス・J・ウエグナー氏を取り上げます。もうこの椅子の世界の巨星であり不世出の巨匠についてはコメントすることは恐れ多いので、お会いした経緯と感想をお話ししたいと思います。1992年の秋、コペンハーゲンのご自宅にデザイン雑誌の取材という理由でお会いすることができました。

スタジオでのハンス・ウエグナー氏
1978年にチャールズ・イームズが亡くなり、翌年1979年に夫人でパートナーのレイ・イームズが留学先のクランブルクに来ました。あこがれのチャールズ・イームズに会えなかった残念さとレイに会えた嬉しさが半々の複雑な気持ちでした。その後、チャ-ルズ・イームズ以後、一番の巨匠であると思っていた、アーロンチェアで有名なビル・スタンプ氏にもシカゴで会い話しをすることができ、

1944年 FH-4283 チャイナチェアー
残りの一番会いたい椅子の巨匠はハンス・J・ウエグナー氏しかいません。会いたいと思いつつもハンス・ウエグナー氏と会うのはとても難しいという情報ばかりです。後でわかったことですが晩年のウエグナー氏は持病を持っていたようで健康に配慮し外部の人とあまり会わなかったようです。たまたま1990年頃一度だけGマークの審査委員をした事があり、その事務局、経済産業省傘下の産業デザイン振興会が「DESIGN NEWS」というデザイン誌を発行していて編集長に企画を持ちかけました。もし、ハンス・J・ウエグナー氏に会えたらインタビュー記事を載せてもらえますかと。編集長はそれはもちろん載せますとの即答返事。

1949年 PP-503 ザ・チェアー
その掲載企画をもとにデンマーク大使館に電話をかけハンス・ウエグナー氏と会って取材できるよう依頼しました。普通の雑誌と違い政府系のデザイン誌ということもあって大使館が動き、会う機会をつくって頂きました。当時、私はシカゴの家具見本市に20年あまり毎年、視察に行っていて業界紙に記事を寄稿していましたので取材するということはなれていました。2年に1度、ケルンで開かれているオルガテック家具見本市によく行っていましたので、その帰りコペンハーゲンに取材に行きました。1992年10月のことです。
1953年 PP-250 パレットチェアー
ハンス・ウエグナー氏、78才。私が48才の時です。ハンス・ウエグナー氏は2007年1月26日92歳でなくなっていますので亡くなる14年前にあたります。お会いしたときデンマーク人の通訳兼営業の方が間に入って下さったので英語で取材しました。ハンス・ウエグナー氏はあまり英語が得意ではないながらほとんど理解されているようでした。ウエグナー邸を訪れると玄関でウエグナー夫妻が出迎えてくれました。
1/5椅子模型を説明するウエグナー氏
とても緊張しているようでした。こちらも目の前にあこがれのウエグナー氏がいて緊張しています。応接間に案内され、訪問する少し前に地元テレビでハンス・ウエグナー特集が放映されたのでその録画ビデオをいっしょに見ようとウエグナー氏がいい一緒にみました。30分みた後、1階のスタジオに案内され壁面に陳列されている沢山の1/5模型、彫刻を説明してくれました。特に10代のとき作った2体の人体彫刻の模型が特にお気に入りでした。
製図台前で一番最初にデザインした椅子を紹介
若いときデザインした椅子と1987年73才の時デザインした椅子「PP-68」を製図台の後に2台配置してあり、説明してくれました。私にとっても巨匠ウエグナー氏が椅子をデザインした作業場、デスク、製図道具はとてもみたい、確認したい場所です。椅子の設計者なら一番みたい所はそこなのではないでしょうか。その名作を生み出したウエグナー氏の製図台の前でウエグナー氏と握手し記念撮影。手の温もりは忘れられません。とにかく、奥様共々、とても穏やかな、やさしい方でした。
ウエグナー氏の製図道具と最初にデザインした椅子
椅子はその作者の性格がでます。むしろ、自画像と言えるでしょう。ウエグナーチェアーの品の良さ、マイルド感は正にウエグナー氏そのものです。皆さんがウエグナーチェアーに会うとき、座るとき、皆さんはウエグナー氏自身に直接お会いしているのです。以前、チャールズ・イームズの作業場と彼が使っていた製図机と椅子をサンタモニカの隣ベニスにある「109」スタジオでレイに案内してもらって見たことがあります。それも意外と質素でシンプルな作業場でした。名作の生まれる現場はさっぱりしています。ウエグナー氏の製図テーブル、製図道具、作業場には彼がデザインした椅子が無造作に何台もおいてありました。その後、応接間に戻り取材開始。椅子デザイナーである私にとって一番聞きたい、知りたい、質問から始めました。沢山あるデザインしたご自身の椅子の中でどの椅子が一番すき好きですかという質問に、1965年、41歳のときデザインしたパイプ椅子「PP-701」が一番好きで、奥さんも一番好きな椅子といいました。

スタジオの中の工作台
軽く一番シンプル。ちょっと意外でした。次に、Yチェアーはいかがですかと質問しましたらあの椅子は孝行息子だとの答え。一番稼いでくれている。1950年、36才の時ある会社の依頼で椅子を頼まれ展示会に間に合わせるため3台の椅子をデザイン。一番気に入っていた椅子は成功せず、予備として提案した椅子が大ヒット。それがYチェアーを開発した時のエピソード。ウエグナー氏自身もわからないものだといいました。長年椅子をデザインしたことのある人はわかります。気合いを入れた椅子がヒットせず、何となくデザインした椅子が大ヒットという不思議な結果。肩から力が抜けていてそれがいい結果を生むことがあるのです。3番目に、椅子を設計、デザインするとき意図しているフィロソフィーは何ですか?。

1965年 PP-701 パイプチェアー
良い質問をしてくれたとの反応があり、こういいました。私は椅子を設計するとき角が無いように設計します。その理由は椅子に座ってじっとしていることがないのです。色々な座り方を座る人はするものです。ですからどんな座り方をしても痛くないよう丸みをつけます。そういってソファに腰掛けポーズをとってくれました。質問した後、実は私も椅子のデザイナーですと話し、イトーキで生産されていて大ヒットしていた「サクラルチェアー」のカタログをウエグナー氏に見せました。そうするとサクラルの写真を見て、どうしてこの椅子は座面の後側が盛り上がっているのとの逆質問が私にきました。大ウエグナー氏から私への質問です。

1950年 CH-24 Yチェアー

イトーキ サクラルチェアー
一瞬緊張しましたが、その理由をこう説明しました。人間工学的に椅子に座る形は背骨が「Sの字」状になる形が理想的です。そのためには腰骨を前方方向に回転する必要がありそのために脊の支持点で背を押す必要があります。さらにそれを確実にするためお尻を座面後方で押し上げると骨盤が前方向に回転し気持ちがいいのです。と申し上げましたら、なるほどね。その他にもいろいろ質問が来ます。
1960年 EJ-100 ザ・オックスチェアーに座って説明するウエグナー氏
その中でこういう質問がありました。私の椅子は日本でいくらで売られていますか。私は高いです。当時レートの関係もありますが、デンマークの価格の3倍です。そういうと、ウエグナー氏は顔を曇らせそれは高すぎる。もっと日本の皆さんに私の椅子を使ってほしいのにという言葉が返って来ました。取材もおわりに近かずき、雑談の中でウエグナー氏はこんなこといわれます。私はアメリカに行った事があるが日本には一度もない。しかし、日本からの訪問者が多くきて日本の色々なものを頂いている。

提灯の寸法を測るウエグナー氏
その中で40年前にこの大きな提灯を手に入れたが古くなったので同じ形、大きさの提灯が可能なら欲しい。手伝って頂けますかとのお言葉。もちろんお金は払います。日本に帰りましたらお送りいたします。ということで2人でサイズを測り、確認し、帰国してから関西に出張の折、京都の提灯屋で同じものを見つけ出し、買い求め、ハンス・J・ウエグナー氏に贈りました。2万円の提灯に確実に届けるため書留付きの宅配便の費用が約2万5000円。その後、きっちりとお礼状と共にお金が送られてきました。ですからいまウエグナー邸の居間にある提灯はわたしが贈った京都の提灯です。

ウエグナー氏と握手。
後日、取材記事が掲載された、「Design News」1993年221号をハンス・ウエグナー氏に送りました。その後、7年間程、クリスマスシーズンになるとクリスマスカードが私のもとに届きました。たぶんインガ夫人が送ってくださったと思いますが名前はハンス・J・ウエグナー氏の名前でした。取材の時、ハンス・ウエグナー氏とスタジオ、インタビュー映像を許可を頂き撮らせて頂きました。ウエグナー邸取材の後、PPモブラー社とオーデンセにあるYチェアを生産している旧家具工場もビデオに納めました。
PPモブラーのアイナー・ペターセンとウエグナー氏
ハンス・ウエグナー氏の肉声ビデオ、ウエグナー椅子を生産しているデンマーク工場ビデオは今も椅子塾の大切な教材の1つです。もちろん取材し、掲載した「Design News」をPPモブラーのアイナー・ペターセン社長、カールハンセン社の社長にも送りました。椅子のデザイナーが取材する視点は違うと思います。ハンス・ウエグナー氏に直接お会いしての私の感想は、ハンス・ウエグナー氏のウエグナーチェアはデンマーク家具の歴史、伝統の上にあの素晴らしさが存在するということと、PPモブラーのアイナー・ペターセンの様な最高のマイスター、家具職人というパートナーを得て沢山のウエグナーチェアーを生み出す環境が整っていると感じたことでした。
昨年デンマークにいる友人から送られてきた現在のウエグナー邸の提灯
ウエグナー氏が素晴らしいといってもそれをサポートするデンマークの伝統、環境を抜きには語れないでしょう。同時代の家具デザイナー、ボーエ・モーゲンセン、ポール・ケアホルム、フィン・ユール、コーレ・クリント、アルネ・ヤコブセン、等に恵まれていたことは事実でしょう。第2次世界大戦をはさんで苦労もされたでしょう。それらの背景と共にあの素晴らしいウエグナーチェアの数々が生み出されたのだと思います。そして意外だったのは、PPモブラーにしても、カールハンセン社にしても工作機械とコッピングマシーンを大量に使い自動化されている部分が非常に多いことでした。手作リとのイメージが強いデンマーク家具ですが、じつは自動化されて大量に生産されているのでした。しかし工場の大きさは20人前後。このことは1つの日本の家具工場の雛形になると思いました。日本や、アメリカの大きな家具工場をみて来た経験から意外な事実でした。小さいながらも良質の家具、椅子を自動化で生産する。これは日本の木の工房、メーカーの良き見本です。

話は長くなりましたがハンス・ウエグナー氏に生前お会い出来たことは私にとって宝です。

2011年8月5日    井上 昇

2011年09月04日(日)

● いすの話-21

いすのデザイナー9:「ユーロ・クッカプロ」

Yrjo Kukkapuro(1933〜)

● バックナンバー
タイトル
2017年のいすの話
2016年のいすの話
2015年のいすの話
2014年のいすの話
2013年のいすの話
2012年のいすの話
2010年のいすの話
2011年01月01日(土)
「レイ・イームズ」
2011年02月01日(火)
「デビッド・ローランド」
2011年03月01日(火)
「マリオ・ベリーニ」
2011年04月04日(月)
「ニールス・ディフェリエント」
2011年05月06日(金)
「ビル・スタンプ」
2011年06月07日(火)
「ブルーノ・マットソン」
2011年07月04日(月)
「ルッド・ティエセン」
2011年08月05日(金)
「ハンス・J・ウエグナー」
2011年10月04日(火)
「ドン・アルビンソン」
2011年11月11日(金)
「ジャンカルロ・ピレッティ」
2011年12月08日(木)
「フランク・O・ゲーリー」
いすの話は9月はフィンランドのユーロ・クッカプロを取り上げます。故人では、フィンランドはアルバーアールトという建築家であり家具でもすばらしい作品を残した巨人がいますし、

若き日のユーロ・クッカプロ氏
フィンランド出身でアメリカで活躍し家具デザインでも有名な建築家、エーロ・サリネンがいます。現在、現役では、フィンランドにはもう一人、シモ・ヘッケラという名の知られた椅子のデザイナーがいます。

1963年 Karuselli(カルセリ)
私がユーロ・クッカプロ氏と会ったのは2003年10月、のオゾンでのセミナーです。「現代フィンランドデザイン展」のなかで「 美学、人間工学、エコロジー」と題して、シモ・ヘッケラ氏と共に講演しました。まさか、あこがれのユーロ・クッカプロ氏と日本で会えるとは思いもよりませんでした。背が高く細身でとても優しく、柔和なデザイナーらしくない方だなというのがお会いした印象です。セミナーのあと挨拶し、たまたまカメラを忘れたので同じくセミナーにきていた方に二人で握手する写真を撮ってもらい後日メールで送っていただきましたが、こちらにそれを開くソフトがなく残念ながら映像はありません。
しかし、手のぬくもりはしっかり覚えています。ユーロ・クッカプロという名前を知ったのは、彼の代表作「Karuselli(カルセリ)」チェアーをインテリア雑誌と輸入家具会社のショウルームとで見た時からです。イームズと同じくファイバーグラスを使ったシェルチェアーでありながらその造形のユニークさと美しさにクギズケになりました。そのとき私は 20代半ばで椅子のデザインを始める前、家具会社に勤めながらスペースデザイン部でオフィスのインテリアに携わっている時です。
1960年 Swivel chair
早速、クッカプロの椅子を私に任された、大きなオフィスのミーティングコーナーにこのシリーズの回転椅子を使いました。その後、この回転椅子の中古を渋谷、東急ハンズで見つけ私の椅子コレクションに加えました。座りのカーブが抜群なのです。その後、北欧のインテリア雑誌で次々とクッカプロの椅子を見かけますが彼の代表作とは違い、手作り的なシンプルな椅子ばかりです。これはこれで、とてもユニーク、個性的ですばらしいのですが彼の代表作「カルセリチェアー」程の強烈なインパクトはありません。
remmi-1970
私の方はその後、本格的に事務椅子のデザインに取り組んで行きましたが、数億円の開発費をかけ大量生産する仕事が中心になって来た時、クッカプロの椅子は趣味の延長の椅子の様で距離を感じて遠い存在になって行きました。

ユーロ・クッカプロは1933年フィンランドの東カレリア地方(現ロシア領)生まれ、現在78歳。私が会いましたのは2003年ですから70歳の時です。ヘルシンキ芸術デザイン大学の 教授・学長も歴任し、機能性を重視するデザインを教えたという教育者でもあります。

fysio
「素材の特性を生かし、人間工学的アプ ローチによる作品を数多く発表。オフィス、音楽施設、劇場、教会、地下鉄のベンチなど、デザイン。現在はフィンランドの AVARTE社の筆頭デザイナーとして活躍」ということです。

氏の優しさはそんな所からもきているのかもしれません。今回、いすの話で記事と写真を収集してみてその作品の多さにおどろきました。


experiment seat 1982
私が現在、事務用の椅子デザインを離れ、自分でデザインした木製の椅子を販売する立場から改めてユーロ・クッカプロ氏の椅子を見てみると以前とは全く違った視点が見えてきます。一言でいうと、クッカプロ氏は椅子と遊んでいるという事です。日本でのセミナーのタイトル「 美学、人間工学、エコロジー」でも解るように、クッカプロ氏は雪の中での人間の形から代表作「カルセリチェアー」をデザインしたとある様に、椅子の人間工学がクッカプロ氏の椅子の創作の原点になっています。実に伸び伸びと自分のやりたい様にデザインし創作していながら「人間工学の視点」がぶれていません。

Finland Rocking chair
人間工学のベースがしっかりしているのでどんな遊びに近い形の椅子もしっかりしています。それともう一つ、代表作「カルセリチェアー」のような椅子は開発に費用がかかります。大手家具メーカーに関係なく創作として、中小家具メーカーと組んで椅子をデザインするとしたら開発費用をかけない手作り的手法にならざるを得ません。それでも、こんなにも多くお金をかけることなく自由に人間工学に基く素晴らしい椅子をデザインできるという事をクッカプロ氏は78才の現在も創作活動を通し実践しています。

子供椅子
今回改めてクッカプロの椅子を見て気づかされました。フィンランドは小さな人口の国です。国内に家具の大きなマーケットがある訳ではありません。その状況下で椅子のデザインの分野で楽しく創作を続けるとしたら、クッカプロ氏のように「人間工学的に充分な裏付けを持たせ、自由で楽しい、個性的な椅子をデザインし世に出す」。そのスタイルはとても私たち椅子のデザインを職業としてめざす者にとって示唆的、教育的です。

SOFA

ユーロ・クッカプロ氏

ラウンジチェアー

ラウンジチェアー

最近の作品
2011年9月4日    井上 昇

2011年10月04日(火

● いすの話-22

いすのデザイナー10:「ドン・アルビンソン」

Don Albinson(1915-2008)

● バックナンバー
タイトル
2017年のいすの話
2016年のいすの話
2015年のいすの話
2014年のいすの話
2013年のいすの話
2012年のいすの話
2010年のいすの話
2011年01月01日(土)
「レイ・イームズ」
2011年02月01日(火)
「デビッド・ローランド」
2011年03月01日(火)
「マリオ・ベリーニ」
2011年04月04日(月)
「ニールス・ディフェリエント」
2011年05月06日(金)
「ビル・スタンプ」
2011年06月07日(火)
「ブルーノ・マットソン」
2011年07月04日(月)
「ルッド・ティエセン」
2011年08月05日(金)
「ハンス・J・ウエグナー」
2011年09月04日(日)
「ユーロ・クッカプロ」
2011年11月11日(金)
「ジャンカルロ・ピレッティ」
2011年12月08日(木)
「フランク・O・ゲーリー」
いすの話は10月はアメリカのいすのデザイナー「ドン・アルビンソン」を取り上げます。3年前に93歳で亡くなりましたから70歳で亡くなったチャールズ・イームズに比べて長寿を全うしたといえるでしょう。チャールズ・イームズが事務所を立ち上げたときドン・アルビンソンはその助手。

ドン・アルビンソン
イームズ事務所の最初の所員としてイームズの椅子のモデルを作ったり、自らデザインした椅子がイームズの作品として世に出て行きます。イームズ事務所を離れ独立してからもノル社の椅子をデザインしたり、他の家具メーカーのオフィスチェアーを開発したりしています。

アルビー・アルビンソン(左)と
ダン・クラマー(右から2人目)
私がドン・アルビンソン氏にお会いしたのは17年前の1994年、ミシガンにあるクランブルック アガデミー オブ・アーツの卒業生パーティーの時でした。我々のデザイン科の教授であったマイケル&キャシイー・マッコイがクランブルクを退任するのにあわせキャンパスに沢山の卒業生が集まったときです。その中にはニールス・ディフェリエント氏やニューヨークで活躍しているアンテナデザインの宇田川信学氏やエリック・チャンもいました。その時ドン・アルビンソン氏も息子のアルビー・アルビンソンと親子できていました(当時79歳)。もう引退して普通の老人という印象でした。

スタジオのチャールズ・イームズ
私は彼の息子のアルビーと親しく、彼はクランブルック・デザイン科の2年後輩になります。親子してクランブルクの卒業生ということでアメリカでも知られた親子です。後輩の日本人留学生がアルビーと同級生で、その後輩の紹介を通して親しく付き合うことになりました。その後、アルビーは結婚してニューヨークからミネアポリスに移り住んだことでさらに、私の親しいアメリカのパートナー:ダン・クラマーもミネアポリスに住んでいるので、ミネアポリスに行くたびにパーティーで会っていたわけです。

イームズと共同開発した
アルミニウムグループチェアー

イームズスタジオのドン・アルビンソン

イームズスタジオのドン・アルビンソン
私がドン・アルビンソンの名前を知ったのは1970年頃、20代の時にノル社で製品化されていたアルビンソン・スタッキングチェアーと出会った時です。ノル・インターナショナルジャパン社のショールームが丸の内にありよく見学に行きました。まだ、椅子のデザインに関わる前の時で、きれいな椅子だなーというのが初めて見た時の印象です。当時、日本ではまだ高価なアルミをふんだんに使い航空産業の発達したいかにもアメリカの椅子という雰囲気。ドン・アルビンソンの名前を世界に知らしめた名作椅子です。
ドン・アルビンソンは1940年、兵役から帰った25歳の時、ミシガンにあるクランブルク・アカデミー・オブ・アーツに入学します。8歳年上のチャールズ・イームズがクランブルクのインダストリアルデザイン科の教授の時の学生でした。卒業後、エーロ・サーリネンとチャールズ・イームズのオフィスの一員でもありましたが、その後、ロサンゼルスのイームズオフィスのメンバーとして1946年〜1959年まで15年間もチーフディレクターとして働き、イームズのシェルチェアーや、プライウッドチェアー、アルミニュームグループ迄幅広くイームズの椅子デザインに深く関わっています。特にソファーコンパクトは1954年、ドン・アルビンソ ンによってデザインされました。良いデザインの家具をより安く販売する事を目指し、背もたれが折り畳めるなど運搬のコストを節約することも視野に入れている のが特徴です。

ハーマンミラー社製ソファコンパクト
その後、1960年にイームズ事務所から独立。ロサンゼルスに自分の事務所を構え1964年に彼の代表作アルビンソン・スタッキングチェアーをノール社から発売します。

1964年から1971年までの7年間、ノール社のデザインディレクターを務め、その後、70年代、彼はウェスチングハウス社のオフィスの椅子、家具システムの設計に携わり大成功を納めます。カリフォルニア大学ロサンゼルス校でも工業デザインを教えていました。1987年、72才の時、息子の名前「アルビー」と同じ名前のスタッキングチェアーを発表します。


アルビンソン・スタッキングチェアー
イームズの華やかさにくらべ、ドン・アルビンソンはイームズの裏方というイメージが常について回ります。それだけにやや陰が薄い感じもしますが実直でまじめで良きアメリカの親父という感じの人でした。1940年代クランブルックに入学したことで若き日のチャールズ・イームズや、レイ・イームズ、エーロ・サーリネン、フロレンス・ノル、ハリー・ベルトイアなどの巨匠達と出会い、刺激を受けつつも最終的には、同時代の家具デザイナーとして後世に名を残すことになりました。その意味では幸せな人生を全うしたアメリカの家具デザイナーといえるのではないでしょうか。
2011年10月4日    井上 昇
ウェスチングハウス社のオフィスの椅子

2011年11月11日(金)

● いすの話-23

いすのデザイナー11:「ジャンカルロ・ピレッティ」

Giancarlo Piretti (1940-)

● バックナンバー
タイトル
2017年のいすの話
2016年のいすの話
2015年のいすの話
2014年のいすの話
2013年のいすの話
2012年のいすの話
2010年のいすの話
2011年01月01日(土)
「レイ・イームズ」
2011年02月01日(火)
「デビッド・ローランド」
2011年03月01日(火)
「マリオ・ベリーニ」
2011年04月04日(月)
「ニールス・ディフェリエント」
2011年05月06日(金)
「ビル・スタンプ」
2011年06月07日(火)
「ブルーノ・マットソン」
2011年07月04日(月)
「ルッド・ティエセン」
2011年08月05日(金)
「ハンス・J・ウエグナー」
2011年09月04日(日)
「ユーロ・クッカプロ」
2011年10月04日(火)
「ドン・アルビンソン」
2011年12月08日(木)
「フランク・O・ゲーリー」
いすの話は11月はイタリアのいすのデザイナー「ジャンカルロ・ピレッティ」を取り上げます。1940年イタリア、ボローニャ生まれ。現在71歳。

ジャンカルロ・ピレッティ
ボローニャ美術アカデミーに学び、そのあと1972(32歳)年迄Anonima Castelli社で社内デザイナーとして開発部の主任兼、デザイナーとして働きます。その間の1963〜1970(23歳〜30歳迄)母校、ボローニャ美術アカデミーで教鞭もとります。

プリアホールディングチェアー
1969年29才の時、5センチで積み重ねられるプリアホールディングチェアーをデザイン。1975年よりフィレンツェISAIデザイン大学顧問に就任。1970年代後半、エミリオ・アンバツ(Emilio Ambasz)と協力して人間工学の椅子 バーテブラ"Vertebra" (1977) とドーサル "Dorsal" (1981) オフィスチェア−をデザイン。数々の賞を取ります。1984年カステッリ社の子会社、カステリア社から「ピレッティコレクション」を発表。各国で製造され、数々の賞を受賞。という経歴の持ち主です。

DSCスタッキングチェアーと
タンデムシーティングチェアー
初期の代表作「プリア」チェアは、ジャンカルロ・ピレッティの名を世界に知らしめた折りたたみ椅子。たたむと板状になり、座面が透明、機能的でデザインもシンプル。
フォルムもとても美しくこの椅子がでて来たときの衝撃は忘れません。イタリアにすごい椅子のデザイナーがいる。私がピレッティの椅子と出会ったのは家具メーカーに勤めている時でした。海外とのライセンス契約を積極的に展開し、社内で生産していたDSCスタッキングチェアーとタンデムシーテングチェアー。アルミをふんだんに使ったこの椅子は完成度が高く、美しく、合板バージョンもあってこんな椅子をデザインしたいものとあこがれもしましたし、そのシステマチックな構成に多くの影響を受けました。典型的な工業デザイン的椅子の代表例。アメリカに行ってもこの椅子はどこでも見かけ(国連の中)、ヨーロッパはもちろん世界中でヒットした。これもジャンカルロ・ピレッティの代表作です。

バーテブラチェアー"Vertebra"
私がジャンカルロ・ピレッティと度々会ったのはネオコンと言う毎年、6月にシカゴで開かれる、全米家具見本市のピレッティの椅子をライセンス生産、販売している家具会社のショールームでした。こういう展示会場にはデザイナーも説明に立ちます。会話もしましたが、日本からの来訪者ということでの対応で、それ以上の関係はありません。常に自分の椅子の売り込みに精力的で、その姿勢は徹底しています。日本人とみると自分の椅子が日本でも売っているのでとても気さくに対応し、その姿勢はある意味でデザイナーの鏡、デザイナー職人ともいえる人です。

私はジャンカルロ・ピレッティ程の椅子の天才はそういないと思います。特にその造形力。バランス感覚の良さ、とてもイタリア的な人の良いアーチストです。


バーテブラチェアーマネジメント
その後、ピレッティは1970年代後半から、1943年生まれでアルゼンチン出身、プリンストン大学で学び、アメリカで活動していたエミリオ・アンバスと運命的に出会い、共同で人間工学に基づいた椅子「バーテブラ(1977)」、「ドーサル(1981)」をデザインします。数々の賞を獲得する意匠デザイン、これも造形的にはほとんどジャンカルロ・ピレッティのデザインですが、そこに組み込まれている素晴らしいメカパテントは全てエミリオ・アンバスが考案、権利を持っています。椅子のデザインはピレッティの天才的デザインですが、特許はエミリオ・アンバスのものです。特異な形を持つバーテブラははじめはそんなに売れる椅子と思われませんでしたがピレッティの天才的造形力によって徐々に認められ大ヒットします。まず、ヨーロッパからはじまって、アメリカ、アジア地区と、エミリオ・アンバスのこれまた天才的マケーテイングの戦略によって、世界中で生産され大ヒットします。

バーテブラチェアーエクゼクティブ

日本で生産しているメーカーのバーテブラはもちろん大ヒットしました。以前、発表された新聞広告では400万台以上が生産されたとありました。そのライセンス料も大きな額になったことは想像できます。その多くは特許権を持つ者が権利を持ちます。このケースはたとえ椅子としても特許を持つ者がいかに強いかを証明した椅子デザインのケースとしてアメリカでもとても話題になりました。この反省点からピレッティはその後、独自で数々のヒット椅子を精力的にデザインします

ピレッテイコレクションもその1つですが日本中で使われています。


ドーサルチェアー
椅子の魅力は良い椅子をデザインした時に他の商売と同様にその成果に見合う報酬を得ることにありますが、クリエーターにも自分のアイデアを権利化するというエミリオ・アンバスのような努力が足りないのも事実です。

エミリオ・アンバスとジャンカルロ・ピレッティ、2人の素晴らしいクリエーターから学ぶことは、いくら良いデザインをしてもそれだけで椅子のデザインが終ったわけではありません。まず特許、意匠登録、そこからが大変なのです。販売をする為の生産計画、品質維持、販促活動、カタログ、インターネット等々。椅子を販売しているメーカーは世界を問わず、そこに大変な努力と投資を行なっています。椅子のデザインは総合経済活動なのです。

今でもピレッテイがデザインした「バーテブラ」はお勧めの椅子の1つです。


ピレッティコレクション
2011年11月11日    井上 昇

2011年12月08日(木)

● いすの話-24

いすのデザイナー12:「フランク・オーウェン・ゲーリー」

Frank Owen Gehry(1929-)

● バックナンバー
タイトル
2017年のいすの話
2016年のいすの話
2015年のいすの話
2014年のいすの話
2013年のいすの話
2012年のいすの話
2010年のいすの話
2011年01月01日(土)
「レイ・イームズ」
2011年02月01日(火)
「デビッド・ローランド」
2011年03月01日(火)
「マリオ・ベリーニ」
2011年04月04日(月)
「ニールス・ディフェリエント」
2011年05月06日(金)
「ビル・スタンプ」
2011年06月07日(火)
「ブルーノ・マットソン」
2011年07月04日(月)
「ルッド・ティエセン」
2011年08月05日(金)
「ハンス・J・ウエグナー」
2011年09月04日(日)
「ユーロ・クッカプロ」
2011年10月04日(火)
「ドン・アルビンソン」
2011年11月11日(金)
「ジャンカルロ・ピレッティ」
いすの話12月はアメリカの建築界の大御所、そして椅子のデザイナーでもある「フランク・O・ゲーリー」を取り上げます。1929年2月生まれですから現在82歳。ポーランド系ユダヤ人としてカナダのトロントに生まれ、1947年18歳の時、家族とロサンジェルスに移住します。

フランク・O・ゲーリー
1954年25歳で南カルフォルニア大学、建築学士を取得。その後、陸軍に従事したあとハーバード大学で都市計画を1年、学びます。1961年32歳の時に、1952年23歳で結婚した妻と2人の娘とパリに移ります。

サンタモニカのゲーリー自身の自宅
建築家アンドレ・ルモンデのもとで1年働いたあと、翌年1962年アメリカに戻り1967年、38歳のとき他の建築家と共同で事務所を立ち上げます。注目を集めるようになるのは40代後半になってからです。1978年49歳のときサンタモニカのゲーリー自身の自宅改築のデザインからです。ずいぶん遅いデビューです。自宅のデザイン、その形から、「脱構築主義建築(デ・コンストラクティブ)」の旗手とみなされるようになり、注目されその後、建築界のノーベル賞とよばれるプリツカー賞ほか、多くの賞を受賞し高い評価を得、沢山の素晴らしい建築をデザインしていきます。フランク・ゲーリーは多角的才能がある建築家で家具のデザインも沢山しています。2006年、77歳からはティファニーのジュリーデザインも手がけています。椅子では段ボールの椅子シリーズが有名ですが私はノル社からだした帯状のクロスチェックアームチェアシリーズが大好きです。

段ボールの椅子
私もこのアメリカの巨匠とも言える建築家に直接会った事があるのです。それも51歳の頃ですから、いま思えば注目をあび始めた3年目の頃です。それは1980年、デトロイトでです。1979年にミシガン州、デトロイト郊外、ブルームフィールドヒルズ市にあるクランブルック美術大学院に留学中の時です。クランブルクはアメリカでも数少ない美術大学院大学で、9つの学科、建築・デザイン・絵画・彫刻・写真・陶芸・織物・彫金・版画がありそれぞれ1学科、毎年10人以下しか学生を入学させませんので講義も少ない人数で受けるため教授と学生、外部講師と受講生と言っても密着した授業になります。

段ボールのソファとオットマン
外部招待講師は大学のゲストルームで1週間泊まり込みで来てもらい、特別講義と課題はその呼んだ学科のみが受講し、レクチャーは全学生誰でも参加出来るというプログラムがあります。その講師として当時の建築科の教授、ダニエル・リベスキンが、フランク・O・ゲーリーを呼んだのです。今考えてみれば何故講師として呼んだのかよく理解出来ます。ダニエル・リベスキン自身が「脱構築主義建築(デ・コンストラクティブ)」の旗手の1人として有名になりつつある時でした。

ディズニーコンサートホール
その当時ダニエル・リベスキンは建築しない建築家、理論家として揶揄されていましたが、後に、ニューヨークトレードセンター跡地の再開発のコンペで1等になり、建物は今建築中で、アメリカで最も有名な建築家の1人になるのですがその当時はクランブルクの33歳の建築科の教授でした。同じくユダヤ人。1980年クランブルクに来たフランク・O・ゲーリーは51歳、先にも述べましたが、3年前の1978年にサンタモニカの自邸の改築した家が評判になり注目されていた時でした。講義の内容もロスの自邸のスライドを写し講義してくれたこと鮮明に覚えています。いま思えば遅咲きの階段を上り始めた時だったのです。小さな部屋でクラスメイトと身を寄せあって講義を聴いた記憶が今も鮮明に思い出します。

クロスチェックアームチェアー

そのとき私はフランク・ゲーリーとはどんな人物か良くわからなく、ただの普通のおっさんという感覚でしたが、クラスメイトにこの人どんな人なのと聞いたら、クラスメイトがあきれて「フランク・ゲーリー」だよこの人が。あの有名なフランク・ゲーリーだよ、あんた知らんのかとあきれていたことを思い出します。ノルの椅子はアメリカ人ならノスタルジーを感じるはずです。秋になると一般の郊外に住んでいるアメリカ人は自家製のトマトケチャップを作る為に、近くのトマト畑農家に家族総出で買い出しにいきます。それが毎年の恒例になっていて、韓国の人がキムチを作る為に白菜と唐辛子を買いにいく習慣と似ています。

パワープレイクラブチェアー
そのトマトを木の籠にいれて持ち帰るのですが、その籠の木がこの椅子の構成されている薄板ととてもよく似ています。籠と違って椅子の材料はありふれた薄板材ですが作るのは大変だと思います。フランク・O・ ゲーリーにとって、この椅子はダンボールチェア共々、売れる椅子を作っているという意識はないと思います。しかしそこをあえてやるのがフランク・O・ゲーリーの楽しさなのです。椅子は小さな建築とも言われ、彫刻でもありとても魅力的なアイテムなのです。

今月で私が実際にお会いした海外の椅子デザイナーの「いすの話」は終わります。


フェイスオフカフェテーブル
2011年12月8日    井上 昇