2013年01月05日(土

● 井上昇のいすの話-32 Part 2

クランブルック入学

昨年の12月は椅子の話忙しさにまぎれて休んでしまいました。2013年新たな年を迎えスタートします。

イリノイ州ベロイトのホームステイ先、農家ホルメスに見送られて、シカゴ経由でデトロイト郊外ブルームフィールズヒルズにあるクランブルックにもどります。寮に入る事にしていたので入学手続きの前の日に到着、その日は学校の近くのモーテルで1泊。翌日、朝、クランブルクの事務室に行くと新入生が三々五々来ています。英語学校と違い全米各地から集まって来た男女学生に混じって東洋人が少し目につきます。入学手続きを済まして男性寮へ。寮は単身寮と2人寮の2タイプがあり人気がある単身寮はすでに2年生が独占。新入生は2人寮が割り当てられます。軍隊と同じです。私は25、6歳のプリントメーキング、即ち版画科の学生と一緒の2人部屋。クランブルクに入学前、イタリアに留学していた事があるという事で、普通2年生に与えられるティーチングアシスタントという奨学金付きの役割を1年生からもらってえらい自信満々のお兄さんと一緒!。とても気の良いお兄さんですがとても女性に持てるタイプで時々部屋を占領され外で待たされる事もしばしば。

● バックナンバー
タイトル
2017年のいすの話
2016年のいすの話
2015年のいすの話
2014年のいすの話
2012年のいすの話
2011年のいすの話
2010年のいすの話
2013年02月13日(水)
「キャンパス生活・独立」
2013年03月07日(木)
「クランブルック生活」
2013年04月10日(水)
「一年目の夏」
2013年05月10日(金)
「ニューヨークからボストンへ」
2013年06月29日(金)
「クランブルック2年目」
2013年07月26日(土)
「卒業制作に向けて」
2013年08月31日(土)
「プリントメーキング」
2013年09月30日(月)
「卒 業」
2013年10月28日(月)
「デフェリエント氏を悼む」
2013年11月30日(土)
「East Greenville」
2013年12月30日(月)
「帰国へ」

 その優秀な彼が1年後、学校を去る事になります。私はクランブルクの寮には1ヶ月半ほどいて11月には日本から家族を呼んで同じブルームフィールズヒルズ市内ながらポンティアックに近いタウンハウスにアパートを借り移ります。はじめ1年間は一人で寮にいるはずでした。その理由は資金的に一年で帰るかもしれない事が主な理由でしたが、学校が始まって2ヶ月も立たないうちに食事の面で寮の食事が喉をとおらなくなった事です。
Cranbrook Academy of Artゲート
 英語学校以来5ヶ月アメリカ式の食事を体が受け付けなくなってきたことです。そこで炊飯器を買い、寮で自炊を始めましたが限界があります。日本にいる時は気にもなりませんでしたが味噌汁を作ると寮中、凄い臭いなのです。クランブルクは家族寮がないので外部にタウンハウスを借りることになり、家内も大手銀行本店の外国部での勤務経験とアメリカ留学経験もありアメリカでの生活体験希望もあったので一年で帰るならなおの事、家族を呼んで生活する事にしたのです。子供は4歳でした。子供は近くのモンテッソリーに行き実質的には家族留学が始まったことになります。このことは大きな費用負担になりましたが単身では味わえないアメリカ生活を体験することになりました。駐在員の閉鎖的なアメリカ滞在とは違う自由だけはあるが超貧乏滞米生活です。
            
  クランブルック事務局と校舎     短い秋の紅葉・メープル    冬のクランブルックキャンパスにて家族と
アメリカの学校プログラム

アメリカの学校は2セメスター、2期制(秋、9月期、新年、1月期)でどちらからでも入学できるという自由度があります。1年在学し、1年休学したあと復帰するという自由度もあり日本とずいぶん違います。冬学期から入る人は少なくやはり9月から入学する人が多いのは日本の4月入学とにています。


Cranbrook Academy of Art
キャンパス
ですから、9月に入学した方が同期生が多いということになる利点がありお勧めです。私が入った大学院の年間スケジュールは下記のとうりです。見ていただければお分かりのとうり、アメリカの大学にはGraduation、すなわち卒業式が秋と春の2回あるのです。冬休みが1ヶ月、5月の終わりの週から、9月の第一週まで3ヶ月半、夏休みに入ります。
CRANBROOK ACADEMY OF ART

Fall Term Registration September 10(M)
Fall Term Begins September 11(T)
Thanksgiving Recess November 22,23(Th,F)
Fall Term Graduation December 20(Th)
Fall Term Ends/Winter Break Begins December 21(F)

Spring Term Registration January 21 (M)
Spring Term Begins January 22 (T)
Spring Break Begins March 21 (F)
Classes Resume March 31 (M)
Good Friday April 4(F)
Spring Term Graduation May 22(Th)
Spring Term Ends December 21(F) May 23(F)

クランブルック授業計画ファイル
授業スタート

クランブルクは大学院大学なので通常の授業というようなプログラムはありません。クランブルクは、デザイン、版画、建築、絵画、彫刻、彫金、写真、テキスタイル、陶芸の9学科があり先生は各科に1人ずつ、デザイン科のみ2名。学生も各科10人以内しか入学させない小さな学校です。クランブルックの特長はアートスクール!デザインも写真も全部アートとして取り組む基本方針があります。


最近のクランブルックガイダンス

デザインはアートと違うという人はこの学校には1人もいません。このデザイン学科の初代指導者がチャールズ・イームズでその生徒がレイ・イームズになるのです。ですから我々デザイン科の卒業生はレイの後輩になるのです。小さな学校だけにその絆は端で見るより強いといっていいでしょう。

私の入学時のデザイン科の教授はマイケル・マッコイ&キャサリン・マッコイ。マイケルが3D、立体、インテリア、プロダクトデザインを担当し、キャサリンが2D,平面、グラフィックデザインの担当。驚いた事にマッコイ、通称マイクは私と同じ年、キャサリン、通称キャシーは一つ年下。最初の驚きは唯一の担当教授が同い年とは!何ともはや!

しかし、建築科の教授は2歳年下の33歳!この建築科の教授がダニエル・リベスキン。現在建設中のニューヨーク ワールドトレードセンターの跡地に立ちつつある高層ビルの建築家になるのです。

デザイン科の授業は教授と話し合いながら自分のテーマを決めていく自主授業スタイルを取っています。デザイン科1、2年合わせて20名、約半分が2D,3Dと分かれるので1、2年合同でも立体が10名程度なので毎日一緒にやっている感じですがただ1年目の新入生は、グラフィック、ディスプレイ、照明器具の課題や、本を5冊よんでレポートを提出などの課題の他に1年のはじめと2年目のはじめだけは、みんな初顔合わせなので、仲間意識を高める為に最初の授業のみグループ課題を出し、その課題をチームでリサーチからはじめ討論し、プレゼンモデルを共同で作成し、そのチームの代表が発表するというプログラムからスタートします。私の時はデトロイトのインターセクション、即ち、ある特定の交差点を選び、その問題点を現地でリサーチし、分析し、改良点を洗い出し文章化しモデルまで作成しました。


クランブルック時代のデザイン科教授:チャールズ・イームズと建築家教授:エーロ・サリネン


教授マイケル・マッコイ&キャサリン・マッコイ


建築家教授:ダニエル・リベスキン

こう書くとそんな事かと思われるでしょうが英語の問題で最初のこの課題、チームのみんなについて行くのが大変。アメリカ人は議論好きですからどんどん意見を戦わせて行く。(そう教育されているし、意見を出さないのは能力がないとされてしまう。)最初は問題がこうなんだと判っていたつもりが途中でついて行けなくなり終わり頃になってこういう事を我々のチームは議論しやっていてたんだと納得!グループ課題は一番苦手な課題でしたがチームメイトは皆優しくカバーしてくれた事でした。日本人の留学生に取っては課題内容は特別に難しいとは思いませんが英語で議論して行くのが大変です。アメリカ人の英語は人によって癖が強く聞き取りにくく、耳がなれてくるのは半年程過ぎたあたりから理解度がアップ!ですから最初の半年は無我夢中です。

それでも楽しい事も。入学してグループワークが終わっての10月、授業の一環のニューヨークトリップに出かけます。


デザイン科の授業風景:2年先輩のクラス


教授マイク・マッコイとノルのデザイン部長ジェフ・オズボーンと院生の私。皆同い年35歳。

ニューヨークトリップ

10月のニューヨーク、マンハッタンではデザイナーズサタデイというニューヨークにある大手家具会社(ノル、ハーマンミラー、スチールケース他)や店が展示会を同じ時期に開催し、それらの家具ショールームやデザイン、建築スタジオを訪問、見学しながら夜は家具ショールームでパーテイーが開かれそれらに合流。特に、クランブルックはハーマンミラーやノルと関係が深く卒業生が多く働いています。そんな事でノルでのパーティーはクランブルクの同窓会の観を呈しており、ニューヨーク在住の家具関係者の他、クランブルックの沢山の卒業生、ノルの創立者、フロレンス・ノルも来て大盛り上がり。日本では考えられない程の華やかなハイステータスなパーテイーです。

そんなニューヨークトリップも終わり家族を迎えての最初の冬は零下10度の銀世界。学校とアパートと幼稚園の往復の日々。アパートに移ってもいつ帰るか解らないので家具は最低限に抑え、サルベーションアーミー、救世軍の所からただ同然で家具を仕入れ、あとは捨てられている建材を拾って来てテーブルにしたり。アパートは家具がないので室内運動場の様、まさにバラック生活が続きます。

   2013年1月5日  井上 昇


椅子のデザイナーでクランブルックの先輩デビット・ローランドのオフィス訪問


アルバート・カーン建築事務所訪問


2013年02月13日(水)

● 井上昇のいすの話-33 Part 2

キャンパス生活・独立

 何はともあれ12年ぶりのクランブルックでの学生生活をすごします。理由はどうあれ生活の基盤を作る30代半ばで家庭を持ち子供までいて、職をなげうっての自費留学など当時も今も普通の常識から考えればとても非常識な行動である事にはかわりはありません。さらに資金計画も十分でなく!今振り返っても無茶な行動をとったものだとは思いますが、私にはどうしても達成したかった、考えていた目的がありました。それは「独立」です。会社の中で自分の将来のポジショニングが全く見えない中でただ家族の生活の安定の為だけに、このまま自分に与えられたたった一度だけの人生を会社内で我慢して過ごす事が良いのか!(ほとんどの人はそうしているし、それが日本の家庭人の常識です。)自分に取ってはノーの結論を出したのです。次にそしてもし独立するとしたら、すでに海外のキャリアを元に活動している同じ家具分野のライバルと戦って行けるのか!これもノーです。その先輩達がイタリアに行っているのなら長年の苦手の課題である英語の勉強もかねてアメリカへ行こう。そう思っていたときクランブルックの情報が入り、試しに会社に内緒でアプライしていたら入学許可が出たので決断したのです。

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「クランブルック入学」
2013年03月07日(木)
「クランブルック生活」
2013年04月10日(水)
「一年目の夏」
2013年05月10日(金)
「ニューヨークからボストンへ」
2013年06月29日(金)
「クランブルック2年目」
2013年07月26日(土)
「卒業制作に向けて」
2013年08月31日(土)
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「卒 業」
2013年10月28日(月)
「デフェリエント氏を悼む」
2013年11月30日(土)
「East Greenville」
2013年12月30日(月)
「帰国へ」

 年齢も独立するなら35才がリミットとこれも同じ会社から独立した信頼する先輩から聞いていたので。辞職した大手家具会社の創業社長もとても心配してくれて、社員に戻れば2年間の留学費用を全額持つからとのありがたい手紙もいただきましたがご辞退しました。もし戻ればもう会社を辞めれなくなる。会社をやめる最大の理由は「独立」して自立したかったからです。2年間の留学費用を出していただいた上で会社を辞めれば道義的に同じ家具業界での信用がなくなる。このほか、留学後、元の勤め先の会社から仕事をいただけたらとの淡い期待もありました。創業社長が帰って来たら挨拶に来なさいとの言葉もあったからです。仮に仕事をいただけなかったとき、ライバルメーカーの仕事をしたとしても自費留学だったら後ろ指さされなくて済むという計算もありました。実際にはそうなりました。将来の活動の自由と信用を優先したのです。これは大正解でした。

 帰国後,前にいた会社を訪問し社長にお会いし順序はふみましたが結果的に仕事は頂けませんでした。そこでしかたなくもといた会社のライバルメーカーの仕事をする事となった時、義理を欠かずに仕事をする事が出来、将来が開けたのです。仕事は信用が何よりも優先します。

留学資金と費用

 それではどう私費留学の資金を工面したか!これも無茶な話ですが、なし崩しに義父から2年間の家族留学費用1,200万を借金しました。結果的に応援してくれたのでしたが、帰国後、10年かけて完済しました。


冬の Cranbrook キャンパス


同じ敷地内 Cranbrook 高校の
学生食堂

 義父曰く「可愛い娘と孫を人質にとられて応援するしかないだろう」。それとこういう事も「お互い困っている時は助け合おう」とも。その約束は「義父母の老後のケアーを最後まで看取る」という事をわたしなりに実行して約束を果たしたと思っています。今思えば私が留学した時期の日本はバブル経済の全盛期で義父母はまだ若く支援するだけの経済力があった時でした。その意味で留学時期としてはラッキーな時期だったともいえますし、義父母に取っては結果的に強制貯金させた事と裏腹に日本のバブル経済がはじけたあとの不景気なとき貯金が全額戻ったことになり?良かったんではと勝手な理由をつけたりしました。

 借金も全額返済し、義父との約束も実行し、無事、義父母を天国に見送った今だからこんなこと言えるのかもしれません。このような話しといすの話と関係がない様に思いますが実は中心問題なのです。創作には「精神の自由と独立」が必要なのです。その為には組織のなかにあっては本当の自由な創作は難しいでしょう。私の場合はそうでした。自分らしく生きるには「精神の独立」、それを支える「経済的な独立」が絶対必要と私は考えます。

我が家での同時期の日本人留学生の集まり
 しかし、その私の勝手な独立の為に周りの多くの心優しい人に大変なご迷惑をかけた事は甚だしく矛盾します。これは反論の余地はありません。しかし、一般的にいつの時代も親はかわいい「子供の独立をサポートする事」は「出来る範囲内」でするのではないでしょうか!出来る環境にある場合はする。出来ない時は出来ない。そんな背景の元に2年間の留学は進行したので大変なリスクを背負っての日々でした。会社のお金で留学したり、フルブライト等の留学資金の援助の元に留学するのとちがって自腹を切り、周りに迷惑をかけての留学なので真剣にならざるを得ません。でもこのスタイルはお勧めです。血のにじむリスクなしに本当の人生の学びはないと思うからです。このデトロイトでの2年半の留学生活は私の人生の中でどん底の時でありながら最高の時でもありました。このどん底の意識と生活そして、1,200万の借金から私のフリーランス生活はスタートしたのです。
デトロイト:フォードミュージアムでのパレード


フォードミュージアム
開拓時代トレイン


フォックスヒルズアパートメント
拾ってきたドアーをテーブルに改造

デトロイト:モーターショー
 デトロイトの冬は日本の旭川と同じ寒さです。零下10度はごく普通の事で、ブリザードが吹けば零下20度程にはなります。しかし室内は暖房が行き届いているのでTシャツで良い程快適です。車の運転はとても注意が必要です。寒いので雪はつもるというよりさらさらでアイスバーンに気をつけながら急ブレーキは危険なのでエンジンブレーキをかけながらの運転になります。アメリカの道路は日本と違って道幅は広く平地が主で山がないので運転は楽です。デトロイトはアメリカの中でも治安が悪いという事で有名ですが、2年半の滞在中危険な目にあったかといえば全くありませんでした。それには理由があります。アメリカで生活した2年半の住居は大学院があったデトロイト郊外のブルームフィールドヒルズ市のはずれ、ポンティアックに近いアパートに住んでいたので治安が良かったのです。このことも留学費用が上がった事と無関係ではありません。アメリカ生活の基本は住む地域を選ぶという事は治安=安全に直結します。日本ではあまり考えられない事です。地元のアメリカの住民もデトロイトのダウンタウンには昼間、観光でいくか必要に迫られた以外にいきませんし、基本的に夜は8時以降外出しないという事が普通です。あと車で移動する事で日本のように夜のそぞろ歩きという習慣は場所にもよりますが一般的にアメリカにはありません。アメリカは全くの車社会ですから、留学して車を持っていないと不自由をとうりこして全くのお手上げです。
冬のアパート周辺・2階の窓からの景色


クランブルックに来てくれた元会社の先輩と

ハーマン・ミラー工場見学

 そんな留学生活を送る中で一つの決定的とも言うべき体験をします。会社にいた時、一緒に仕事もし親しくしていた営業の先輩が独立し、デトロイトに訪ねてきて、一緒に同じミシガンのシカゴに近いジーランドにあるハーマン・ミラーの本社と工場見学にいこうと誘われます。すでにアポイントメントは日本で取ってあるということで2人で自宅から5時間の距離にあるその工場見学にでかけます。

 1階の受付で挨拶をすませ、2階のショールームを案内してもらいその家具のショールームに一歩、脚を踏み入れた時のなんともいえない衝撃と感動。イームズ家具を中心とするそのインテリアの素晴らしい事!ただただ感動の一言につきます。家具デザインってこんな素晴らしい世界なのか!なんと素晴らしい仕事なのか。その時、心に確信しました。光が射して天の啓示にちかい体験です。自分のやっている家具のデザイン、それも特に椅子のデザインとはこんなにも素晴らしい世界なのか。仕事なのか!それが可能ですでにやっている人がいるではないか!と


ハーマン・ミラー本社2階の
顔写真パネル

イームズチェアとイームズテーブル
 本社ショールームの見学のあと椅子の工場を案内してもらいます。そこにはアーゴンチェアー(その当時では今のアーロンチェアーと同じ意味を持つ高級オフィスチェアー)が1メーターおきにつり下げられて大量量産されていてその規模の半端でない事。そのあと、イームズシェルチェアーを年配の女性も含むたくさんのワーカーが、あのあこがれの椅子を作っている。このとき決心しました。自分の今の状況や、日本で椅子のデザインで食べて行けようが行けまいが、椅子のデザインを一生のライフワークとしてやる!と決心しました。この瞬間から迷いはなくなり、腹は決まります。それは今も全く変わりません。その意味で、アメリカに留学しなかったらこの体験はできなかったはずです。その意味でこの体験を得た事だけでもアメリカ留学の意味、多額の費用と、家族を含む周りを巻き込んでのリスクは私にとっては報いられたのです。

アーゴン・チェアー

アーゴン・チェアーを生産している工場
レイ・イームズとの出会い

 1年目の秋、確かニューヨークトリップの前、素晴らしい出来事が!デザイン科の2階の窓から下を見ると、黒い服を来たレイ・イームズが笑って手を振っているではありませんか。もう1人の年配の男性とともに。クラスメイトも感激で大騒ぎです。そのあと、2人が我々のスタジオに廻ってきます。前年、チャールズ・イームズが亡くなり。イームズ夫妻の時のハーマン・ミラー社内の担当デザインディレクター、ボブ・ブレークと一緒にジーランドのハーマン・ミラーを訪ねたあと久しぶりに母校のクランブルックに立ち寄ってくれたのでした。私のスタジオにもきてくれ、しばらく話します。記念写真取ったのがこの写真。私が日本人であるというと、私も日本が大好き、日本に行った事がある。素晴らしい体験だったと高い声でいいます。(marvelousマーベラスを連発)日本の人形、おもちゃ沢山持っている。クランブルクが終わったらどうするのかというので、希望としてはアメリカで働けたら少し働いて日本に帰るというと、帰るときアメリカの南部をドライブして(大陸横断)して帰る事をすすめる。素晴らしい体験が出来るはず。そしてロスのベニスにある「901」スタジオにも来なさい!あこがれのイームズが目の前にいる。それも先輩として。信じられない!この出会いも留学しなかったらなかったこと。

   2013年2月13日  井上 昇


レイ・イームズとスタジオで


クランブルックの個室スタジオ


2013年03月07日(木)

● 井上昇のいすの話-34 Part 2

クランブルック生活-1

 話はもどってクランブルックでの生活を述べてみたいと思います。最初は1年間の留学でもと考えていた事は事実です。しかしクランブルクでの生活がはじまりアメリカでの生活が実際にはじまってくるとその一年はあっという間に過ぎてゆきます。そして学校生活を送るうち、ビザが有効な2年間いれるならいて何とかして卒業までいたいと思う様になりました。1年では修士はとれませんが2年いればとれます。もともと修士を取る事が目的でなく2年間のアメリカ滞在が目的でしたが、周りは修士を取るのが目的のクラスメイトばかりです。ちなみにクラスメイトのアメリカ以外の留学生、特にアジアからの留学生は一部の例外を除いてアメリカに仕事を求め移民が目的の人がほとんどという事も解ってきます。そして2年目は1年目は無理だったスカラーシップもとれそうな事もわかってきました。家族もきて生活も落ち着いて来るとこんな経験は今後一生で2度と出来ないだろうと思うと希望は確信に、そして実行に!

1年目の課題

1年目は夢中でグループ課題、共通課題のディスプレイ・グラフィック・照明器具・ニューヨークフィールドトリップなどになれない英語とも絡まって夢中で取り組むうち、すぐクリスマス休暇に入ります。アメリカでの初めてのそれも雪に埋もれたクリスマス。私の家族が住んでいたクランブルックのあるブルームフィールドヒルズ市は、デトロイトにおけるお金持ちがたくさん住んでいる地域でデトロイトのベバリーヒルズともいわれる所です。GM:ゼネラルモータースやフォード・クライスラーなどの経営者や高級社員などのエリートが多く住み、アーサー・ヘイリーの小説「自動車」の舞台になった所としても有名なところです。この地域は小さな湖や池が沢山ある所で自宅の中に湖があるという家は珍しくなく、学校の近くにフランク・ロイド・ライトが設計した住宅も何軒かありその中に有名な「スミス邸」もあります。クランブルックの敷地の中にも湖があり雁の群れは日常的にいますし(見かけによらずけっこう獰猛、糞公害に悩まされる)白鳥も浮かんでいます。そんな高級住宅が沢山ある地域ですからクリスマスシーズンの各家の飾り付け・イルミネーションは趣向を凝らしていて、家族で車に乗りその飾り付けた美しい家々を見て回るのはまさにディズニーランド!買い物に行くモールというショッピングセンターもクリスマスシーズンはサンタも出て来て家族持ちには楽しい所。日本では見れない楽しさです。こういう所が家族留学の良さでしょうか。


 
クランブルックキャンパス内の壁面ギリシャ彫刻(左側)と湖:キングスレイク

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照明器具課題
壁面トライアングル照明


ミュージアムのディスプレイ課題
三角形の立体組み合わせ

新年をむかえ、1年目の後期に入ります。後期に入るとそれぞれの自由課題を選び取り組むことができます。私は早く椅子のデザインをしたくてたまりません。なんといったってここはチャールズ&レイ・イームズがいたアメリカでも屈指の家具デザイン・椅子のメッカで、多くのクリエーターを輩出しその伝統を作ったパイオニアの教育機関です。それはその後も続いている所ですから。そして椅子のデザインの勉強のためにここに来たのと、折角の長期の自由時間を得たこと、現場からはなれていての焦りも強くありました。

ミュージアムでのノル社の展示とセミナー。外部講師によるセミナーは大学院の必須授業。
クランブルックの先輩でアメリカにおける椅子の人間工学の権威で椅子のデザイナー、
ニールス・デフェリエント氏の椅子の展示。
しかし、教授との大学院としての課題の進め方の話し合いのなかで今までやって来た企業で取り組む生の椅子のデザインに取りかかるのではなく、そこからいったん離れ、椅子の造形の原点にもどり、基本の形の洗い出しから進める事にしました。これは今(留学中の現場からはなれた自由な時間)でしか出来ない事であることと、前からやりたいと思っていた絵画をかくということともからめて良い機会と思ったからです。

抽象造形演習-1:ワイヤーによる彫刻

私は高校の時から油絵を描き始め武蔵野美術大学時代もその後も絵を描いていました。それは高校時代の美術部の仲間と先生とのグループ展を会社に入って社会人になってからも28歳頃まで続けていましたが、会社が忙しくなるにつれ中断し7年以上止めていました。私にとっては絵を描く事が椅子の創作に変わっただけで2つの事は創作という趣味でもあり実務でもありながらも共通性があります。絵は平面芸術(2D)ですが椅子は立体芸術(3D)、使える彫刻という捉え方です。その絵もただ景色や人物、静物を自己流にかくいわゆる印象派的な絵画を描いていてもマンネリと限界もあり、パウル・クレーやワシリー・カンジンスキー、ジャクソン・ポロックやピエット・モンドリアンのようにいつか抽象絵画に踏み出さなくては絵を続けられないというジレンマが久しくあり、それも絵を中断していた理由でもありました。

現実には生活の糧を得る忙しい会社つとめの中でお金にもならない絵を描いてじっくりと抽象絵画を描く試行錯誤などという事も端から見ればただの暇つぶし、趣味としか見えませんが、しかし、私にとっては抽象的な創作の表現手法を手に入れるという事は絵だけでなくデザインの創作にとっても作品の質を上げる上で欠かせないことと思っていました。その為には仕事を離れての自由な時間が欲しいと思いつつもそんな時間は会社つとめでは全く無理とあきらめていました。

その実験を期せずしてクランブルックの自由課題で出来るという事になったのです。さらにクランブルックに来る理由の一つに、前の会社の開発部で入社以来6年目にして念願の開発部に移れ、好きな椅子を業務として出来た5年間、入社以来の遅れていた時間を取り戻すべく夢中で創作を続けていてエネルギーを出し切っていました。今後、この椅子の創作を仕事としてまた続けて行くとしたら、まず出し切ったエネルギーの充電と、帰国後、今後10数年つづくであろうこの先のエネルギーを貯めておく必要があると考えたのです。それにはそれまでの仕事の経験から今までとは違った「造形の自分なりの手法」を持たないとやって行けないとの思いがつよく感じていた時で、方向が見えないなりにダメ元でやってみる事にしたのです。

チャールズ・イームズがクランブルックで当初、始めたのが「Experimental Design」実験デザイン。この意味と私の意味と同じかどうかは別としてごく単純な事から取り組み始めました。「無」から「有」を取り出すのが創作だとすると良いと思う事をトライアルすることからはじめるしかありません。まわりからなんといわれようと!たとえ幼稚でも!


ワイヤー彫刻-1:空間演習


ワイヤー彫刻-2:空間演習


ワイヤー彫刻-3:
空間演習「ステップ」

抽象造形演習-2:平面と立体演習

まず平面(2D)から。
西洋は石の文化といいます。日本は木と紙の文化といいます。西洋の形はジオメトリック、即ち幾何学です。その形の基本は、○と□と△。日本は自然の形、現象を形に取り入れます。その二つの共通の原型、形とは!
平面の点・線・面は共通です。2000年前も現在も変わらないものは今後2000年経っても変わらないでしょう!タイムレスの造形を作るとすればタイムレスの形にすればタイムレスになります。椅子も同じです。

点と面はさておき、線の形から徹底的に拾いだして行きました。まず、1本の線。太い線もあれば、細い線もあります、何本も並べればストライプの模様が出来ます。そのストライプの線を90度で交差すればグリッドが出来ます。斜めにすれば違った形。カーブを付けた線では色々な模様が出来ます。線を点にすれば雪の様に美しい水玉模様が出て来て、小さな水玉は小紋になります。グリッドの反転は四角のパターンになります。そんな形を10cm四方の紙に書き付けてどんどん壁に貼って行きます。


クランブルックキャンパスの窓:
ステンドグラス

平面演習:線のパターンの洗い出し
  
写真説明:2Dから3Dへ:ストライプ&グリッド・水平・垂直・斜め・ナチュラル

抽象造形演習-3:ワイヤーチェアー演習

次にその意味を受け継ぎつつワイヤーネットで形を作って行きました。紙の様にカットしたり、曲げてみたり。それを彫刻やレリーフにしてみます。黒や赤の塗装を吹き付けると空間造形に見えてきます。その後、そのイメージを1/5椅子らしき椅子の模型に置き換えてみて色々と試してみます。最後に1/5模型と同じイメージのものを実物の大きさにスチールロッドを使って一脚製作。当人は大まじめにやっていますが、端から見たら椅子のおもちゃか、ただの遊びのようなものに見えていたと思います。美術学校というのは大学院といえども端から見れば大まじめにゴミをいっぱい作っているような所です。これが一年後期のやっていた私の取り組み。あっという間の1年の後期も終わりに近づき、2年に進級するには各自が所属する科の担当教授を除いた各科の8教授による個別の進級判定審査がありその時にこのやって来た取り組みを説明します。その審査がとうらなければ2年生に進級できません。

期末、各個室スタジオに審査官!がやって来て彼らの質問に答えます。いまでも良く覚えているのは建築家の教授、ダニエル・リベスキンです。当時から建築のない建築家として注目され理論家として知られた人でした。クランブルックでもジューイッシュとしてその頭の切れの良さは目立っていました。日本でいうなら若き時の黒川紀章のような人といえばいえるかもしれません。彼の審査だけはとても緊張しましたが無事合格。ほっとした事を思い出します。という事で慌ただしい中にも5月、1年目のプログラムはおわり、9月までの新学期までの約4ヶ月の長期休暇に入ります。

9月までの新学期までアメリカの学校は夏休みに入ります。ほとんどの学校はその間閉鎖されるので学生寮も閉じ、出なければなりません。学生はその間、自宅に戻ったり、旅に出たり、アルバイトにいったりインターンシップに出かけたりそれぞれの休暇を取ります。大きな大学は夏期授業やサマーセミナーを組んだりもします。

 
(写真左)1年目の個室スタジオ:各自に個室が割当られる。(写真右)ワイヤとワイヤーネットによる椅子モデル作成
      
1/1ハンドメイドフルサイズワイーチェアー:1年目の椅子作品
   2013年3月7日  井上 昇

2013年04月10日(水)

● 井上昇のいすの話-35 Part 2

一年目の夏

 アメリカの学校は9月が新学期なので日本でいう夏期休暇・夏休みというものはありません。ですから、夏休みの宿題という日本なら休んでいても何となく気になる縛りは全くありません。日本人がアメリカの学校に留学するとそのあたりの習慣から来る違和感を感じるでしょう。わたしもそうでした。一年目のカリキュラムが終わってクラスメイトもそれぞれ学校から去り、学校も閉鎖されます。といっても事務所とかアートミュージアム、博物館等は開いています。

この休暇の間、良い気候なので家族と一緒に英語学校のあるミシガン大学のアナーバーのキャンパスや大きな科学博物館へ行ったり、奥さんが日本人でアメリカの人と結婚し、親しくなった家族や、家内の幼なじみでアメリカで開業していて近くに住んでいる韓国出身の医者の友人等との交流も楽しい経験です。シカゴへは夏休みになってすぐの6月、アメリカ全米家具見本市「NEOCON」にも家族をつれいきました。シカゴでは元勤めていた大手家具会社の重役や営業の部、課長クラス、開発部の元上司、先輩、同僚も来ています。一年ぶりに皆と再会。久しぶりに会った同僚との再会は懐かしくもあり、またすでに退職しているので会ってもすでに過去形で複雑な思い。孤独さが身にしみます。シカゴへ行ったそのあと、ホームスティしたウイスコンシン、ベロイトのホルメスの農場へ。その先、イ−ストグリーンビレにあるフランク・ロイド・ライトのタリアセン・イースト等にも再度行きました。その旅行から帰ってから、留学中の一番大きい旅行、家族と岩手に住んでいた私の姉夫婦と一緒に、ワシントンDC、ニューヨーク、ボストン、とカナダ、ナイアガラフォールの10日間程のラウンドトリップに出かけます。ニューヨークには私の従兄、日系アメリカ人でフォトグラファーのカズ・イノウエ(井上和行)がマンハッタンの37丁目にフォトスタジオを構えており姉達をそこに連れて行くのも目的の一つでした。

カズ・イノウエは一時期、日系ファッションフォトグラファーとしてニューヨークで活躍していました。10数年ニューヨークの中心街にスタジオを構えるという事はそれなりの仕事と収入がなければ出来ません。第二次世界大戦中は、母と妹とマンザナール日系人収容所に収容され、朝鮮戦争にも従軍した体験の持ち主です。カズのことは追ってお話し致しましょう

 
  ミシガンの友人宅を訪問         ミシガンの韓国友人宅を訪問

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タイトル
2017年のいすの話
2016年のいすの話
2015年のいすの話
2014年のいすの話
2012年のいすの話
2011年のいすの話
2010年のいすの話
2013年01月05日(土)
「クランブルック入学」
2013年02月13日(水)
「キャンパス生活・独立」
2013年03月07日(木)
「クランブルック生活」
2013年05月10日(金)
「ニューヨークからボストンへ」
2013年06月29日(金)
「クランブルック2年目」
2013年07月26日(土)
「卒業制作に向けて」
2013年08月31日(土)
「プリントメーキング」
2013年09月30日(月)
「卒 業」
2013年10月28日(月)
「デフェリエント氏を悼む」
2013年11月30日(土)
「East Greenville」
2013年12月30日(月)
「帰国へ」


シカゴ市内で元上司と:NEOCON


オハイオターンパイクパーキング

アメリカ東部ラウンドトリップ

 道順はこんな感じです。

デトロイト(ミシガン)→クリーブランド(オハイオ)→
ピッツバーグ(ペンシルバニア)→ワシントンDC→
ボルティモア→フィラデルフィア(ペンシルバニア)→
ニューヨーク→ニューヘブン(コネティカット)→
アマースト、ボストン(マサチューセッツ)→
ニューハンプシャー→バーモント→モントリオール(カナダ)→
トロント→バッファロー(ナイアガラ)→ウインザー(カナダ)→
デトロイト(ミシガン)

スミソニアン博物館

スミソニアン博物館:ゼロ戦

ホワイトハウス

国会議事堂

シェファーソンメモリアル

リンカーンメモリアル:お勧め

ワシントンDC

 デトロイトからワシントンDCまでは約13時間。オハイオターンパイクを通って一気にワシントンDCまで運転を代わりながらドライブ。アメリカの夏は日が長く夜の9時頃ようやく暗くなります。朝も明けるのが早いので早朝、デトロイトを出発しドライブインで休みつつひたすら走ります。アパラチア山脈をこえて夕闇が迫る頃ワシントンDCに到着。モーテルに宿泊。翌朝、ワシントンDCツアーでは、ホワイトハウス、国会議事堂、リンカーンメモリアル、ジェファーソンメモリアル、スミソニアン博物館を中心に官庁街と大きなミュージアム巡りです。モールといわれる所が主な見学先。アメリカに来たら一度は来る所でしょう。ホワイトハウス・国会議事堂は必見です。大きなリンカーンの座像があるリンカーンメモリアルはアメリカの建国の歴史と自由を得る為にどれほどアメリカが血を流したかその事を体で感じる事が出来る所、お勧めの場所です。スミソニアンには月面着立船と月の石。リンドバーグの飛行機。それと日本の零戦を観ます。ジェファーソンメモリアルも行きました。ワシントンDCに車で行くと解りますが、モールの周辺はデトロイトと同じく下町であまり近づきたくない所です。ワシントンDCもアメリカの他の都市と同じくダウンタウンは荒れているという感じでした。ワシントンDCでは車のバッテリーが上がってしまい、パトカーに充電してもらったりハプニングもありました。2泊したあと、朝早く出発し、高速道路でボルティモア→フィラデルフィアを抜けてニューヨーク、マンハッタンへ。ワシントンDCから約6時間程で到着。マンハッタンは車の洪水で市内に入る時ビビりますが、なれてくれば東京と同じ。ニューヨークではクランブルックのニューヨークトリップの時滞在した、カズ・イノウエに教えてもらっていた52丁目イーストの安いホテルだが安全で場所が最高の小さなホテルに滞在します。

ニューヨーク

 ニューヨーク、マンハッタンではお上りさんの通常コース、エンパイアステートビル、自由の女神、国連ビル、メトロポリタンミュージアム、SOHO、ワールドトレードセンター、ウオールストリート、ニューヨーク近代美術館(MOMA)等見て回ります。


トレードセンタービル                自由の女神    ユニオンスクエアー:カズのスタジオの近く

カズ・イノウエ(フォトグラファー)

 その他、目的のカズ・イノウエの37丁目にあるフォトスタジオへ。当時カズは主に有名ファッション雑誌や化粧品会社のコマーシャルフォトを手がけており、ニューヨークでもトップクラスの写真家に混じって写真を撮っている日系写真家でした。ニューヨークでの写真家の競争は激しく17年間第一線で日系カメラマンとして活躍したのはパイオニアに属するのではないでしょうか。当時、まだ写真小僧というニックネームがついていた無名時代の篠山紀信がニューヨークに来たとき交流があったことカズから聞いています。

故カズ・イノウエの撮影写真と化粧品カタログ
故カズ・イノウエ
 カズからはこんな話も聞きました。ニューヨークでの競争は激しく、仕事があれば一挙に金持ちになり、なければたちまち貧乏になると! カメラマンの仕事はランキングがある事。Aランク・Bランク・Cランク、そのどこを狙うかは自分自身の問題。例えばAランクの仕事はVOGUのファッション雑誌や、化粧品などのトップクラスの仕事、ギャラはとても良いが競争が激しい。BランクはAランクよりもややレベルは低いが仕事も多い。Cランクは仕事はいっぱいあるがギャラも安い。

 カズの体験からアメリカのフォトグラファーの仕事の取り組み方が聞け、ニューヨークというよりアメリカでのでの仕事の仕方も理解することができます。カズもしばらくVOGUのファッション雑誌や、化粧品などの仕事にも食い込んでいました。しかししばらくすると、編集者が変わったり写真のスタイルが飽きられるかすると、他の写真家に頼むということはよくあることです。ニューヨークには世界中から才能ある一攫千金を夢見るアーチストが沢山集まってきます。Aランクの仕事は報酬もよいので仕事があるうちは大金持ちになるが仕事が途切れると収入が無くなります。仕事が無くなると一挙に貧乏になるということはこういう事情です。Aランクを狙うことを目的にするなら、Bランク、Cランクに絶対苦しいからといって手を出さないこと。もし手を出したら、そのアーチストは2度とAランクには戻れないこと。ということはAランクのアーチストはひたすらAランクの仕事が来るまで我慢すること。我慢=仕事しない=貧乏になる!。この厳しい現実を耐えたアーチストのみAランクの仕事と報酬と賞賛を受け取れる。そのリスクとの付き合いがあこがれのニューヨークで仕事すること。カズも多額の費用をはらって自前のスタジオ37丁目に17年も構えていたことをみても戦後の日系2世フォトグラファーとしてのカズの苦闘がどんな物であったか忍ばれます。

 そんなおり、スタジオを訪ねたのでした。カズの奥さんはスタイリストでカズの仕事の才能あるパートナーでした。カズからはこんなことも聞きました。女性のモデルはアメリカ人より北欧のモデルから選ぶことが多いと。その理由は肌の白さ、きめの細かさ。アメリカは日差しが強いので残念ながらアメリカのモデルは肌が荒れている場合多いと。またこんなことも、日本は良いね!アーチストも一度、良い仕事して認められるか、名が知られると先生になる。その後、実力が落ちても先生、先生と認めてもらえる。アメリカはそうではない。アメリカは競争社会で若い時いくら良い仕事をしてもその後、実力が落ちると誰からも尊敬されない。ちやほやされない。そこが日本とアメリカの違いだね!と。カズはその後、日本でのマックスファクターの広告写真などの仕事もしていましたがその後、ロスアンジェルス、ハンティントンビーチの実家に戻り60代後半、肺がんで急遽したのが残念でなりません。

カズの父親が私の父の10歳上の叔父・井上次郎で明治26年、1893年生まれ。久留米の屋敷の裏がブリジストンの創始者、石橋正二郎(1889年、明治22年生まれ)の屋敷があり、叔父は石橋正二郎の4歳年下。子供の頃は同じ町内での遊び友達、ガキ仲間として缶蹴り遊びをよくやっていたということを父からよく聞かされました。叔父はその後、神戸大学を卒業後、祖父の代で手放した屋敷を買い戻すためアメリカに出稼ぎに行き苦労した後、カルフォル二ア州スタックトンでレタス農場を経営、事業が軌道に乗った時期に交通事故で他界。その後、残された母親とカズ、妹はそのままアメリカに残り、戦争中、マンザナールの日本人収容所で生活。戦後、ロスアンジェルスに移り日系2世として成長。朝鮮戦争に従軍中、日本で奥さんとなる女性と知り合い、アメリカで苦労しながらもフォトグラファーとして成功。ニューヨークではアービング・ペンらとも交流があったこと聞いています。


井上次郎叔父・和行・久代・叔母

井上次郎叔父葬式:カリファルニア州スタックトン

井上和行:14歳
 戦後の混乱期、色々の事情が会って音信が途絶え私が留学する少し前あたりから交流が再会していた事情がありました。私の兄弟の絵の才能は信州の母方から受け継いだと思っていたのがアメリカのカズは写真家、その妹は企業のファッションデザイナーとして仕事をしていたことが分かりびっくり。父方にも絵の才能をもった従兄弟がいたことで井上家もそのセンスがあったのかもしれません。九州は久留米も含めてアーティストが多く出る土地柄、その範囲内なのでしょう。ちなみにカズは出身がロスなのでチャールズ・イームズとも知り合いでした。写真という共通性があったのでしょう。イームズに会ったことでカズはあの一番高いラウンジチェアーとオットマンを買って愛用していました。
 そのラウンジチェアは羽毛を使ったクッション。その沈み込みは現在、生産されているウレタンクッションのラウンジチェアーとは形は同じでも座り心地は全然違います。羽毛クッションの欠点は縫い目から羽毛が出てくること。座るたびに風船の様なクッションから小さな羽毛が出てくるのは気になるのは分かります。しかし、座り心地より見栄えを優先するのは椅子の設計に携わるものとして如何と思いますが現実はそうです。カズの家で本物を見て座った経験から今のラウンジチェアーはオリジナルとは全然違うといわざるを得ません。
  
イームズ・ラウンジチェアー
   2013年4月10日  井上 昇

2013年05月10日(金)

● 井上昇のいすの話-36 Part 2

ニューヨークからボストンへ

 ニューヨークではカズ・イノウエ夫妻とも会い交流を深めた後、朝早くニューヨークを出発。次の目的地であるボストンをめざしてドライブの旅はつづきます。ボストンへ行くにはコネティカット州ニューヘブンを通過するので有名なイエール大学に寄ります。ここの大学キャンパス内には建築家ルイ・カーンの設計した有名な図書館があってそれを見学。

  
イエール大学:ルイス・カーン設計の図書館外観(左側)とその内部(右側)

 その建物を見学し感銘をうけしばしの休憩をとった後、ルート91を北上。途中ハートフォードを通過して、コネチカット州からボストンのあるマサチューセッツ州に入ります。さらに北上、スプリングフィールドを過ぎて、ノーサンプトンから脇道へ。ボストンに入る前に私にとってどうしても寄りたい場所がありました。ボストンの西、マサチューセッツ州、アマースト。

 アマーストにはアマースト大学があり、北海道大学の前身、北海道札幌農学校、初代教頭ウイリアム・スミス・クラーク博士の出身校です。(日本では「Boys,be ambitious」の言葉で有名な人物)そしてこのアマースト大学は明治時代、日本人では、新島襄、内村鑑三が若い時、学び滞在した大学としても知られています。内村鑑三は私の人生で最も影響を受けた人の1人でその著作はほとんど読んでおり、今から120年前の明治の時代、新島襄も含めてアマーストに滞在したその地に機会があればその同じ地に立ってみたかったところです。アマースト大学は他のアメリカの大学と同様、夏期休暇に入っていて学生はほとんど見かけませんでした。しかしキャンパスを散策し、構内の建物を外から見たほんの数時間のアマースト大学滞在でしたがとても満足でした。日本の地球の裏側、時間は短くても日本から遠くはなれたこのアマーストの地に120年前の内村鑑三、新島襄と同じ場所に立てたのですから。さて寄り道したアマーストからボストンに行くにはルート91で少し下ってスプリングフィールドに戻り、ルート90に入ってボストンまで一直線です。夕方ボストンに到着です

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2013年03月07日(木)
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2013年04月10日(水)
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2013年12月30日(月)
「帰国へ」


マサチューセッツ州アマースト大学

  
ウイリアム・スミス・クラーク(左)、新島襄(中)、内村鑑三(右)

1875年当時のアマースト大学

ボストン

 ボストンでは市内観光をしました。州会議事堂は初めてボストンへ行く人は皆行く所。アメリカの独立戦争ゆかりの場としてアメリカのルーツを味わえるマサチューセッツ州らしさ、ボストンらしい雰囲気を味わえる所です。そのあと、ボストンと言えば何といってもハーバード大学見物。世界最高峰の大学のキャンパスに行き、東部地区特有のシックで重厚な建物群、キャンパスを散策しショップでハーバードグッズ(Tシャツ)を買いました。その他、食事とショッピングにクインシー・マーケットをのぞき、ビーコンヒルと言われるイギリスの町並みの香りがする住宅街を散策。アメリカの中でも東部、マサチューセッツ州は他のアメリカの州と比べ町並みが全然違います。アメリカで歴史とイギリスの町並みを感じられる楽しく美しい町です。日本で例えるならアメリカの京都と言える場所でしょうか。郊外にはケネディー家の別荘地がある事で有名なケープコッドや。メイフラワー号で有名なプリマスもありそれだけに保守的で白人文化圏とも言える所です。

ボストンの町は中部、西部のアメリカと違ってイギリスの雰囲気が濃厚です。歴史の浅いアメリカにあっては歴史を感じる町です。


ボストン州会議事堂


ハーバード大学キャンパスジョン・ハーバード像の前で


ボストン:姉とクインシー・マーケット

ボストン:ビーコンヒル

ボストンからモントリオールへ

 ボストン滞在の後、次の訪問地ナイアガラフォールめざして北上。ボストンからナイアガラの滝に行くには、バーモント州を通り、カナダに入りモントリオール経由、トロント、ナイアガラというルートをドライブです。バーモント州はただひたすら走り、モントリオールにて宿泊。モントリオールはきれいな町です。カナダは町の中心部がアメリカと違って治安も良く、アメリカと比べると別世界です。モントリオールの夜の町の散策に出かけましたがにぎやかでヨーロッパの街にいる感じです。当時のアメリカの都市では夜の散策等ほとんどありえません。(今のアメリカは少し違っています)。モントリオールでは本当に久しぶりに日本と同じく、治安を気にする事なくリラックスして夜の食事と街歩きを皆で楽しみました。モントリオールは、カナダ独立前フランスの植民地だった街。フランス語が共通語であった所なのでフランス語の会話が聞こえるだけでなく、町の人々の服装や雰囲気がなぜかマイルドでフランスの町にいる錯覚に陥りました。それと、気がついた事は、町に繰り出している人たちの身長が低い事。これもアメリカと違う景色です。モントリオールに泊まった後、次の目的地トロントへ。


モントリオール


オンタリオ州トロント

トロントからナイアガラの滝、デトロイトへ

 トロントも綺麗な治安の良い街です。トロントでは美術大学時代の先輩がいてそのお宅を訪ねました。トロントは日系人の多い街です。トロントで一泊後、ナイアガラに行くにはトロントからハミルトンという街を経由してナイアガラの街までドライブの走行距離的にはいったん戻る感じです。ナイアガラの滝はアメリカとの国境が滝の半ばにあってアメリカ側にある滝をアメリカ滝、カナダ側にある滝をカナダ滝と分けます。人気があるのはカナダ滝の方で観光ルートとしてはカナダ滝が人気が高くお勧めです。ナイアガラの滝の観光は、昼の雄大な大瀑布もスケールが大きく楽しめますが、夜のライトアップされた滝もまた美しく人気です。ナイアガラの滝はアメリカでは新婚旅行の人気スポットとして有名ですが実際にみてみると、その水量の多い事、凄い迫力です。そばに立つと滝に吸い込まれそうな感覚に陥ります。都会の真ん中にある滝としても不思議な楽しい滝です。現地に立ってみるとアリゾナ州のグランドキャニオンとナイアガラの滝がアメリカで最も人気のある観光地である事に納得します。


ナイアガラの滝:凄い水量

ナイアガラの滝:夜景
 ナイアガラで1泊し景色を堪能してからまたもと来た道を引き返しハミルトンへ。ハミルトンからデトロイトに向けての最後のドライブ。東に走り、アメリカ、ミシガン州デトロイトとの国境の街、ウインザー市に向けて一直線。カナダ、ウインザー市に到着します。ウインザーとデトロイトは運河を挟んで隣町。ウインザー市もカナダの他の都市と同じく治安の良い綺麗な街です。しばらくカナダをドライブ、旅行するとアメリカとの違いが直ぐ解ります。まずその町並みの清潔さ、治安の良さを感じさせる雰囲気、交通標識の距離がマイルでなく日本と同じキロメーター。その意味でもアメリカに似ているようでアメリカにはないリラックス感がカナダ滞在中はありました。
 ウインザー市からは運河の向こうのデトロイトの町並みがはっきり見えます。特にゼネラルモータースのルネサンスセンターの高層ビル群。その町並みをみて楽しかった10日間の3000キロのドライブ旅行も終わりです。ミシガン州デトロイトをスタートしてからオハイオ州、ペンシルバニア州、メリーランド州、デラウエア州、コロンビア特別区、ニュージャージー州、ニューヨーク州、コネチカット州、マサチューセッツ州、バーモント州のアメリカ10の州と特別区、カナダ、ケベック州モントリオール、オンタリオ州トロント、ウインザーの2州、合わせてアメリカとカナダ、合計12の州と特別区のドライブ旅行でした

カナダ・ウィンザー市から
デトロイトを望む。
   2013年5月10日  井上 昇

2013年06月29日(土)

● 井上昇のいすの話-37 Part 2

クランブルック:2年目

 長い夏の休暇も終わって9月から2年目の新学期が始まります。余裕のなかった1年目と比べアメリカの車社会の生活習慣にもなれ余裕と緊張が入り交じった2年目の新学期。Cranbrookばかりでなく、全米の学校がBack to Schoolで活気が戻ってきます。新学期の9月はまだ暑いながら秋の気配が感ぜられる中、同期のクラスメイトも三々五々学校に集まってきます。新入生も1年前の我々の様にアメリカ国内ばかりでなく海外からの留学生も緊張したおもむきで入学してきます。2年目は上級生で先輩としてえばっています。

 
カール・ミレスの彫刻「ヨナ」(左側)とクランブルックミュージアムでのサマーショー:真中が井上の作品展示(右側)

 ちなみに私の10人の同期生の中の留学生と言えば、カナダのクリストファー・オズブコ、レバノンのレイラ、日本(私)の3人。先輩では香港(エリック・チャン)後輩では、ドイツからアンジェラ・ヴィーガンド、フイリピンからルシール・タナザス、台湾からティンシン・シェイ、香港からゴードンの4人。他学科のクラスには、イギリス、ブラジル、タイ、韓国、香港、等

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2013年03月07日(木)
「クランブルック生活」
2013年04月10日(水)
「一年目の夏」
2013年05月10日(金)
「ニューヨークからボストン」
2013年07月26日(土)
「卒業制作に向けて」
2013年08月31日(土)
「プリントメーキング」
2013年09月30日(月)
「卒 業」
2013年10月28日(月)
「デフェリエント氏を悼む」
2013年11月30日(土)
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2013年12月30日(月)
「帰国へ」
  アメリカに留学する外国の留学生はそのほとんどがアメリカで学位(修士)を取ったあと職を得、アメリカ国籍をとり移民する人がほとんど。日本人留学生の様に留学後日本に帰国するのは少数派でなんで日本に帰るんだとはよく言われました。その時感じたものでした。母国よりアメリカの方が良いと思う人が多い事を。のびのびとしたアメリカの生活環境・風土・実力がある人に取ってはアメリカは素晴らしい所です。日本人の留学生も1/3程は日本に帰国せずそのままアメリカに滞在しています。特に女性の留学生は帰国するのは半分程でしょうか?適齢期?に留学する事もあつてアメリカ人と結婚しそのままアメリカに住む人が多いのも事実です。

後輩と:真中より右へアンジェラ、井上、ティン、ゴードン
 2年目の変化、たとえば寮に入寮する場合、1年目は相部屋だったのが2年生には個室を選ぶ権利があったり、良い部屋を優先して確保します。2年生にはそれぞれスカラーシップが割り与えられ、それに見合った学内の仕事が任されます。その責任度に応じて額も違います。授業料全額免除のクラスメイトもいれば少ない人もいます。それを決めるのは教授です。教授としては1年目の学業成績の評価からスカラーシップを決める事もあり、それを得たい為に教授の仕事のお手伝いに精を出すという事もなくはありません。

クランブルック独身寮

スカラーシップ

 ボスカラーシップに関して言えば留学生はハンディーがあります。その理由は私が留学した時は、留学生は入学時に在学中の2年間の授業料を払えるという事を証明する証明書を提出しなければなりません。例えば銀行口座の預金で払える裏付けの証明書か支援者(親)の確実なる証明書類等。それに比べて母国であるアメリカの学生は入学時にスカラーシップを確実にもらえるか否か確認の上、学校を選ぶことも多くこの点でも留学生は成績だけではなくスカラーシップに関して言えば入学時にハンディーがあるといっていいでしょう。でもこれは致し方ない事です。私も授業料の1/3のスカラーシップをティーチングアシスタントという名目で頂く事が出来ました。その仕事はクラスメイト、後輩が模型等を作る時アドバイスしたり手伝うということのティーチングアシスタントです。額としては1/3の免除は多い方ではありませんがスカラーシップを頂けてうれしかった事は事実です。告白しますがそれではその模型をつくるお手伝いを沢山したかといえば、あまりしなかったというのが事実です。理由は自分の作品をつくるのに忙しいこと、家族留学だったのでキャンパスにいる時間が昼間の時間帯が多く、他のクラスメイトは昼はのんびりしたり、リラックスしていて夕方から夜、スタジオにいる事が多く、時間帯が噛み合なかった事や、1台しかない車で家族の生活もみなければならなかったという事も理由ではありました。同期のグラフィック専攻のクラスメイトは昼、デトロイトのデザイン事務所で働きながら授業料と生活費を稼ぎ、夜、学校に来るという人もいて、毎週、月曜日の朝10時、クリテックでクラス全員が集まるとき以外ほとんどすれ違いという仲間もいるというのが現実。でもその中で立体専攻や仲の良い仲間はそれぞれに集団を作り助け合って行く、そこが大学院という自由度のある所でしょうか!

 それとこんな事もありました。入学したとき2年生で先輩だったはずの人が後輩として入学して来た事です。どうしてといったら1年在籍し、1年休学して働き、授業料が貯まったので入って来たという事。アメリカの学校はそんなことができるんだとびっくり。日本では考えられないそのシステムの自由さ。自立したその生き方!建前より実質と独立を尊ぶアメリカの学校の素晴らしさ。ちなみにこの魅力的な先輩で後輩の女性は後に、一時期、シリコンバレーにあるアップルコンピューターのグラフィックデザイン担当部長として来日した事があり、宿泊先のホテルオークラまで迎えに行き、日本人のクランブルックOBを集め、レストランで会食し飲食費は全部、彼女が支払った事もありました。

 もう1人の1年先輩で親しくしてくれていたマイケル・ヘンシェスも一時期、ニューヨーク近代美術館(MOMA)のグラフィックデザイン部長として勤めていて彼と連絡をとってMOMAを訪ねたとき彼の館内のオフィスに案内されインサイドの彼の仕事の事を直接聞く事が出来たこと等、クランブルックのネットワークの凄さに卒業後も驚くばかりです。


クランブルック図書館


版画科のスタジオ:2年目専攻した。


版画に挑戦:シルクスクリーン


ニューヨーク近代美術館(MOMA)
事務所内でマイケル・ヘンシェスと

 学校の良さは卒業後も交流が続く事です。特にクランブルックのような大学院大学のみの小さな学校という事もあるでしょうが先輩後輩の人数も同級で10人、先輩で10人、後輩で10人しかいないと前後合わせて30人という当たり前ですが小人数。さらに2/3が2年間、寮に住んでいて、週末毎にどこかでパーティばかりやっていると兄弟のような、一つの家族のような感じになるから不思議です。留学の良さはこういう所です。

2年目の授業と卒業制作

 2年目の授業も1年目と同じく後輩が入って来ていくつかのチームにわかれグループワークから始まります。そして恒例の10月の家具のイベント:デザイナーズサタディに合わせてのニューヨークフィールドトリップ。その〆はSOHOにあったKnollのショウルームでのパーティー参加。クランブルックのOBが沢山集まり同窓会が盛り上がります。9月半ばから始まった授業も共通イベントが終わると間もなく11月にはいり、雪の季節に入りクリスマスシーズンに!そして約1ヶ月の冬期休暇。1年目と違い時間が慌ただしく過ぎます。アメリカの卒業式は5月なのですぐ卒業制作のテーマを年内に決め課題に取り組まないと時間的に間に合いません。2年生と1年生と違う所はグループワークとトリップが終わると各自卒業制作に向けてのテーマに移ります。卒業制作のテーマを教授と相談しながら進めて行くことになるのですがそれぞれのオリジナリティーのテーマが求められて行きます。


ニューヨークフィールドトリップ

グループワークの模型
 私達の頃より数年にわたってプロダクトデザイン、インダストリアルデザイン専攻の生徒に対しては担当教授が一つのテーマに沿って卒業制作を進める様に指導して行きました。そのテーマとは「プロダクトセマンティックス」日本語でいうと「隠喩」というのでしょうか。1年後輩の時期から特にその作品が鮮明になって行きましたのでその作品をみていただければご理解いただけるでしょう。このデザイン手法はその当時一種の勢いのあるデザイン手法となりました。私の卒業制作は1年目のテーマ「椅子」を自分なりに進化させたいと考えていました。なぜならクランブルクは過去に沢山の椅子のアーチストを世に送り出して来たアメリカの美術教育機関のなかでもNo1の伝統ある学校です。
ハリー・ベルトイア

 チャールズ&レイ・イームズ、フロレンス・ノル、エーロ・サリネン、ハリー・ベルトイア、デビット・ローランド、ドン・アルビンソン、ニールス・ディフェリエント。テキスタイル分野では大御所、ジャック・レナー・ラーセン、その椅子デザイナーの伝統校に在籍した日本人の椅子デザイナーとして続く事が私の願い・目的です。それで大変なリスクを取りここに来たのですから。

 特にハリー・ベルトイアのワイアのチェアーは彼がクランブルク彫刻科の教授であったとき、この同じキャンパスで創作したものです。彼のワイヤーを作った彫刻も大好き。クランブルクに留学しさらにベルトイアの作品を身近に(クランブルクミュージアムに展示されている)接するうちにベルトイアに魅了されていきました。

 私もハリー・ベルトイアにならってクランブルクの卒業制作には実物のワイアーチェアーを作ってみたいと思いました。1年目に人間工学の1型のワイアーのダイニングチェアーを作っていたのでさらにラウンジチェアーから6型、チェースロングーからベンチ、テーブルまでトータルで作る事と!ベルトイアーに倣って同じ、ミシガンのデトロイト郊外のこのクランブルクの彼と同じ場所でワイアーチェアーを作ろう!テーマは決まりました。


エーロ・サリネンと
チャールズ・イームズ


ハリー・ベルトイア


ハリー・ベルトイアとスタジオ

ケンブリッジ MIT大学:
チャペルのベルトイア彫刻
 
ベルトイアチェアー
   2013年6月29日  井上 昇

2013年07月26日(金)

● 井上昇のいすの話-38 Part 2

卒業制作に向けて

 年が明けた2年目の冬、ミシガン州はアメリカの中でも北部に位置する事もあり冬の1〜2月、寒さが厳しい時は平均マイナス10度前後、ブリザードが吹くとマイナス20度以下になる事もあります。ただ日本の雪と違い寒いので積もる事なくさらさらしています。暖房もしっかりしているので室内は学校もアパートも快適。という事で外に行くのは買い物か学校の行き帰りという事であとはクランブルックの自分専用のスタジオにこもってひたすら課題と取り組みます。英語の方は相変わらず苦労しながらも日常会話にはなれ留学生仲間やクラス仲間とのキャンパス生活と、家族とのアメリカ生活を楽しみながら卒業制作に集中して行きます。

 
B-25爆撃機:アメリカではこんな飛行機が見れる(左側)冬のクランブルックキャンパス(右側)

 1月、図面を描く事は考えず、アイデアスケッチからワイヤーネットを使って1/5モデルを気の向くままフリーハンドで作っていきます。5月には卒業になるので4月中にすべてを完成せねばなりません。

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タイトル
2017年のいすの話
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2011年のいすの話
2010年のいすの話
2013年01月05日(土)
「クランブルック入学」
2013年02月13日(水)
「キャンパス生活・独立」
2013年03月07日(木)
「クランブルック生活」
2013年04月10日(水)
「一年目の夏」
2013年05月10日(金)
「ニューヨークからボストン」
2013年06月29日(土)
「クランブルック:2年目」
2013年08月31日(土)
「プリントメーキング」
2013年09月30日(月)
「卒 業」
2013年10月28日(月)
「デフェリエント氏を悼む」
2013年11月30日(土)
「East Greenville」
2013年12月30日(月)
「帰国へ」
 残された時間は2月、3月、4月の3ヶ月。アイデアが固まった時点で原寸図面の簡単な当たり図面を作成しフルサイズモデル作成に移ります。方針として、1:ラウンジチェアー(椅子のプロトタイプ4型)。2:ヘッドレス付きラウンジチェアー(椅子のプロトタイプ6型)と、3:オットマン。アメリカでしか作る事もないし絶対挑戦したい、4:チェイスロングチェアー。5:車付き、背の角度が変えられるパーソナルガーデンチェアー。6:3人用ベンチ。7:ラウンドテーブル。そして、8:チャイルドラウンジチェアー。このフルサイズワーキングモデルをランダムに1番のラウンジから1週間に1作のペースで作って行きました。

ワイヤーネットによるハンドメイド縮尺モデル
 製作する材料はスチールワイヤー、直径3ミリ程の細いのと直径7ミリほどのやや太いもの。その材料を売ってくれる所は車で30分程のデトロイトダウンタウンの工場地帯の鉄工所。ストレートなワイヤーを車に積んで何度も買い付けに行きました。デザインコンセプトとしては3センチ程の格子のワイヤーネットをまず作成、それを折り曲げ(日本的イメージ)前足と座、背を折り曲げて成形。それだけでは強度的に持たないのでサポートとして太いワイヤーフレームを下に補強材として取り付け(建築の鉄骨構造でいうラーメン構造)その下にインチの(直径25ミリ)の後脚を取り付け椅子として完成。しかし実際には格子のワイヤーネットを作っても、全部手作りなので折り曲げる事は全く不可能。そこでそれぞれの椅子で1つずつ木のゲージを作成。その木のゲージにワイヤーを一本一本、縦と横にクギで固定しそのクロス箇所を針金で一本一本固定(非常に手間がかかるがそうしないと固定できない)。そのクロス箇所全部をスポット溶接の要領でハンディーガスボンベでロウ付けしていきました。4番目のチェースロングチェア−のワイヤーネット部分の溶接箇所は一番多く、2,800個所。

ワイヤーチェアー製作風景:木枠ゲージとワイヤーとアセチレンバーナーとロウズケ棒
1週間に一作の割合で製作に没頭。地下の誰もいない部屋に日中ひたすら籠って、途中の失敗ややり直しも含めて8週間かけて製作。前にもいったようにクラスメイトは夜型が多く日中は作業スペースも独り占め状態。人数の少ないクランブルックならではの環境の良さです。ワイヤーはバーナーで暖めれば飴細工の様に簡単に曲げるが出来ます。しかし、一番困ったのは後ろ足のインチパイプの曲げです。通常、パイプの曲げ加工にはベンディングマシーンという強力な専用の曲げ機械が必要です。しかしデトロイトでその加工を気軽に頼める所はありません。自分自身の手作りでどう作るか悩みました。結果的に考えついた結論は無垢の金属の丸棒ならワイヤーと同じく曲げることができるのではないかと考えましたが、直径25ミリの鉄の棒はとても無理。銅の丸棒も難しい。鉄工所に通ううち見付けたのはアルミニウムの丸棒です。アルミニウムはご存知の様に柔らかい金属なので試しに曲げてみると曲げる事が出来ました。今度は寸法どうりに曲げるのがひと苦労です。しかし、その方法を見付けました。作業台のテーブルに大きな鉄の萬力をつけ、アルミのパイプを固定し、アルミの棒が入る鉄のパイプを根元までとうし、私の全体重をかけて曲げると曲げることができました。これで、後ろ脚の製作も可能になり、フルサイズの椅子はドンドン出来上がって行きます。

アメリカと日本との工作環境の違い

 アメリカと日本と違う所、それは工作道具、溶接の簡単な日曜大工セット、等が気軽に安く手に入る事です。今は日本でもD2とか東急ハンズとかそれに近いものはありますが、アメリカ生活した経験のある方なら理解できるとは思いますがその質とバリエーションが半端でないのです。これはアメリカ人の気質と環境に寄る所が多いと思います。アメリカでは一戸建てはもとよりタウンハウス、アパートメントも含めて地下室があります。それと母屋とは別に車を入れるガレージがあって、作業スペース・場所はたっぷりあります。そしてアメリカ人は日曜大工が大好き!趣味をこえてプロに近い強者がいっぱい。たとえば車の場合、日本車は嫌いだという人がいます。その理由は日本車は故障しないから修理する楽しみがない、必要がない、だからつまらない?という人や、住宅の建て増し、修理、模様替えは全部自分でやるという人が沢山います。一つには自分でやった方が経済的という事もありますが、趣味としてやる楽しみを他人にお金払ってまでと考える人も多いのも事実。人によっては自分で自分の家を立てる人もいます。開拓者魂がいまも根づいている。そのニーズに応えるべくホームデポという大きなストアでは家具はもちろん、建築資材であるドアー・サッシ窓は勿論、トイレから風呂場・下水管に至るまで何でも買うことができます。そしてそれを加工する、工作機械・バンドソーから電動ノコギリ・溶接の道具までほどほどの価格で手に入れる事が可能です。日本と比較するとどう違うかといいますと、日本の場合、木工場で本格的に使う工作機械はあります。あと、簡単な工作に使うシンプルな工作機械はありますが、アメリカの様にアマチュア以上プロ以下のパワフルな中間の日曜大工向けの道具が全くありません。ここが大きく違う所です。充分な作業スペースと本格的な日曜大工のパワフルな道具。何でもそろう色々な道具、たとえばハンドボンベタイプのロウズケ溶接のセット。卒業制作で調達した材料、製作に使った簡単な道具類、日本でも手に入りそうにも見えますが実は大変難しいのです。この環境はアメリカでは当たり前の事が日本では当たり前でない事が多く、ものずくりのベンチャーを起こす若い人に取っては大きな大きな差になるはずです。今はアメリカでも屈指の企業であるアップルコンピューターもスティーブ・ジョブが車のガレージから起こした事は有名な話ですよね!という事で私もクランブルックのデザイン科の教室の地下室にひたすら籠って約8週間、ほぼ毎日1人で実物のワイヤーチェアー作りに没頭しました。このような誰からも拘束されない時、自由な時間は留学する以前、会社に勤めていた時はもとより、留学から帰国してからも厳しいフリーランスの緊迫した時間の中で持てたことはありません。今もそうかもしれません。その意味でサバティカルタイムとしてのクランブルックのこの2年間半の留学期間は経済的には私にとって最悪の時ながらも自由に活動できた最高の時だったのです。人生にこんな時って滅多にないですよね!お金は後で取りかえせるかもしれません。しかし、時間は取り返せません。人生の時間配分は勇気が必要です。

全7タイプワイヤーチェアー&テーブル完成

 計画しつつかつ気の向くまま人間工学のプロトタイプにそって作ります。最終的に製作した椅子は次のアイテム。計画した椅子全部を作ることが出来、間に合いました。
1)ラウンジチェアー、2)ハイバックラウンジチェアー、3)オットマン、4)チェイスロングチェアー、5)車付き、背の角度調整付きロングチェアー、6)3人掛けベンチ、7)ワイヤーロー丸テーブル、8)チャイルドラウンジチェアー、合計8個。それぞれのタイプの木ワクのジグを作りワイヤーをクギで止め縦横のステールロッドをワイヤー固定しつつ、ハンディ−タイプ、アセチレンバーナーでロウズケし、後ではみ出たステールロッドを鉄ノコギリでカット。アルミの脚を取り付けた後、最後に木製の木をはかせブラックとホワイトのペンキで塗装。椅子が出来たら上にのせるクッションの作成です。


ラウンジチェアー
(椅子のプロトタイプ4型)


ラウンジチェアーと
レッドファブリック


ラウンジチェアーと
ブルーファブリック


ラウンジチェアーと
イエローファブリック


ラウンジチェアーと
フルカバリング


ハイバックラウンジと
フルカバリング


ハイバックラウンジと
オットマンクッション付き


車付き、背の角度調節付き
ロングチェアー


三人掛けベンチと
クッション付き


チェイスロングチェアーフルカバリングクッション付き


チェイスロングチェアー
ワイヤーフレーム


チェイスロングチェアーと
クッション付き

卒業製作の椅子の張り布は私の大好きな Knollのファブリックを選びました。
そのショウルームがデトロイトの中心部、例のアメリカの自動車会社「GM」ゼネラルモータースの本社がある同じビルのモール内に Knollのショールームがありそこで購入しました。クランブルクから片道40分程の距離です。中に詰めるクッションはホームセンターで購入。座面の中はパンチカーペットを芯としてそのまわりに薄いクッションとプラスチックの綿を巻いて作り、背は薄いクッションとプラスチックの綿、ヘッドレストも背と同じく丸めて整形して作成しました。ミシンがけは全部自分でやりました。Knollのファブリックはウールとナイロンの混毛。カラーも良く、黄色の平織りとモケットの赤と青の2種類。絵画と同じく色の3原色を選びました。


クランブルック中庭にて、全アイテムと私


ワイヤーロー丸テーブル


チャイルドラウンジチェアー含む
全アイテム

海外と日本のテキスタイル事情

 椅子に取ってクッションのファブリックはとても大切です。「孫にも衣装」というごとく人間は中身より外側の見栄えに影響されやすく、それ以上に肌に接する部分になる触感は椅子の価値をも左右するのです。このファブリックのデザイン、クオリティーにおいては日本は良き伝統がありながら欧米に著しく遅れています。その1つの原因は才能あるデザイナー、テキスタイルメーカーがないのではなく、ファブリックデザイン及びファブリックデザイナーがその創作において生活できるロイヤリティーの支払いの習慣がないことによります。現実には社内デザイナーがあちこちの売れているテキスタイルを適当にアレンジしながら製品化していて、今でも良い椅子張り布を欲しいと思えば海外、イタリアやデンマーク・アメリカ・フランス等から購入せざるを得ません。しかし、質も良いかわり価格は高いのです。その高い理由はその創作者であるテキスタイルデザイナーのロイヤリティーが入っているからです。でもこれは椅子も同じです。製品のデザイン料をしっかり払う。そして良い製品が会社をいい業績に導く。これがよい会社の循環です。今の日本でもこのルールを取ったことによって会社が劇的に変化したケースが沢山あります。身近なところでは徳島の「宮崎椅子製作所」等もそのひとつです。

   2013年7月26日  井上 昇

2013年08月31日(土)

● 井上昇のいすの話-39 Part 2

プリントメーキング

 卒業の課題は最後の追い込みで形になりつつあります。自費留学でお金もないなかともかくも椅子の伝統あるクランブルックのキャンパスで自分で作りたいと思ってた椅子を会社の仕事でなく、生活の為でもなく卒業制作で思う存分作れたということはとてもうれしく贅沢な時間でした。帰国してからも20年間こんな時間はもてませんでしたが今は違います。今は自分でデザインしたい椅子を自分で決めて自分で製造し(委託)自分で販売していますから自分で作りたいという椅子をクランブルックの時と同じく作れるようになりました。今は木の椅子ですが素晴らしい日々です!

 クランブルックの2年目は他の学科も学べるというクランブルック特有のシステムがあります。そこでプリントメーキング(版画)の授業を選びました。校舎が同じビルで2階がデザイン科、1階がプリントメーキング。同期生の西田有輝さんがいます。それと先生がカナー・エバーツ。親父タイプで包容力があり才能も抜群。日本でなくアメリカのアーチストに直接学べるチャンス等そうあるものではありません。それ以上にそのプリントメーキング科の設備の凄い事!リトグラフに使う石板が沢山あるのです。日本では今でもこんなに環境の整った版画設備を揃えた所はないでしょう。そこがアメリカの学校なのです。日本の精神主義と違いアメリカは良い意味にも悪い意味?にも物質主義です。

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2013年01月05日(土)
「クランブルック入学」
2013年02月13日(水)
「キャンパス生活・独立」
2013年03月07日(木)
「クランブルック生活」
2013年04月10日(水)
「一年目の夏」
2013年05月10日(金)
「ニューヨークからボストン」
2013年06月29日(土)
「クランブルック:2年目」
2013年07月26日(土)
「卒業制作に向けて」
2013年09月30日(月)
「卒 業」
2013年10月28日(月)
「デフェリエント氏を悼む」
2013年11月30日(土)
「East Greenville」
2013年12月30日(月)
「帰国へ」
 プリントメーキングスタジオ

カナー・エバーツ元教授

ロスアンジェルスのカナースタジオで西田有輝さんも一緒
カナーからいただいた版画
 こんなにもあなたに勉強する環境を学校は提供するのだからあとは学生は手を抜かずやりなさい。成果が出なかったらあなたに問題がある。努力の足りない学生は進級させない、追い出す。これは教える側の教授とても例外ではありません。ですからアメリカの教授も必死です。この環境がアメリカの大学、大学院教育なのです。形より実質。この教育をアメリカで体験すると日本の大学が如何に形骸化しているかいやでも思い知らされます。既得権益に安住している教育者が有能な人材に道を閉ざしているだけでなく有能な学生にとっても如何に有害か!わたしが「椅子塾」というプライベート社会人スクールを立ち上げた最大の理由、目的はここにあります。アメリカに留学しなかったら、アメリカの教育現場を体験しなかったら「椅子塾」などやらなかったでしょう。新島襄もアメリカに行かなかったら「同志社」を立ち上げなかったでしょう。ソフトバンクの孫正義氏も海外、特にアメリカに留学しなかったら現在の状況はなかったでしょう。アメリカに留学すると人生の見方が変わる。みんなではないでしょうがそうなる人がいる事は事実です。「精神の自由」を発見するのです。
 横道にそれましたがデザイン科の課題の合間を縫って石版を使うリトグラフからトライしました。この絵は3原色、つまり、赤、青、黄色に黒の4色刷り。つまり石版を4枚使っています。重たい石板を印刷機に載せ輪転機を圧着させながら回して行きます。小さな版画ながら1人でするのは大変です。2枚目はもっと簡易的な方法、アルミ板を使ってリト印刷をする方法があってやや大きめのA2サイズに挑戦。リトグラフはもっぱら紙に印刷するのですが、アメリカでも日本の和紙が人気でよく使われています。印刷和紙の英語名は「rice paper(ライスペーパー)」。シルクスクリーンの設備もあるのでシルクスクリーンにもチャレンジ。
シルクスクリーンは何にでも印刷できるので和紙の他にアクリルミラー板、綿キャンバス等に印刷して作品を制作。私の気持ちの中ではまず、点・線・面のパターンと西洋の造形の基本形である、○・△・□(丸・三角・四角)の組み合わせ。色は3原色、赤・青・黄色の組み合わせで平面の絵を印刷し、それを立体のオブジェにし、そこから椅子の形に発展させ椅子をデザインする。その原型であるアートとしての版画に挑戦したのです。その版画を徐々に3D、即ち立体へ。最初はワイヤーチェアーに発展しましたので今度はシステムベンチ、システムソファーへ。
リトグラフ「点・線・面+3原色」

版画科スタジオでシルクスクリーン
「ストライブ・グリッド・トライアングル+3原色」-2
「ストライブ・グリッド・トライアングル+3原色」-1
プロダクトセマンテックス=隠喩
「スクエアー&トライアングル
ソファーベンチ」

 あと私の時はそのスタート時期でしたがアメリカのデザイン界では先に述べた隠喩としてのデザイン表現手法「プロダクトセマンテックス」にもトライしました。私の場合はアメリカの高速道路の標識を支えるパイプの構造支柱の形をソファベンチに取り入れてみて模型を作ったりしました。今ではすっかり蔭を潜めていますがこの隠喩というデザイン手法は実際にはよく使われているのです。別の表現でいえば「かわいい」「セクシー」「クール」「日本的」等はこの隠喩の別の形かもしれません。
私に取って版画を少しだけですが専攻したのは素晴らしい体験でした。その理由はその後今に至るまで版画を製作していませんし(版画は印刷の設備がないと難しい)その教えていただいた先生、カナー・エバーツと彼がクランブルックを去り、ロスアンジェルスに戻ってからも度々あい交流が続いているからです。

キャンバスライフ

 海外で働くことと海外に留学する事の大きな違い、それは人脈だと思います。ある一定期間、学びの場で共に学び、食事を共にし、共に助け合い、良い意味でのライバルであったり仲間であったり、まして海外から言葉も苦労しながら助けられたり助けたり、自由ながらも狭いキャンパスで卒業までの苦楽を共にするという共通体験の中では働く会社では得られない何かが生まれます。ましてクランブルックのような少人数の学校ではその密度は高いと私は思います。しかしそうきれいごとばかりではありません。後輩の中では不倫関係で子供をつくりそれが留学の目的だったのではというケースもいたり!みな若い男女の独身の学ぶスクールでは将来の伴侶を求めて入学する人もいるでしょうし、入学と同時に同棲し卒業と同時に別かれてそれぞれの仕事を求めてアメリカ中に散って行く。そういう学生もアメリカでは多い事も事実です。学園生活でのイベントとしてはハロウイーンの仮装パーティーが特ににぎやか!子供は外で家々を訪ねあるきますが学生はキャンバスの寮内でのお祭り。バニーガールが沢山出て来たのには驚きましたが日本と違って白人のそれも若い美術専攻の美人ぞろいのバニガールはどんな感じか想像にお任せします。男子学生も普段は髭もじゃで服もラフでどちらかというと乞食?に近い服装が普通なクラスメイトもタキシード等の服で仮装して来ると全く別人。実にかっこ良く洋服はつくづく白人の服なんだという事を認めざるを得ません。欧米人と日本人を含む東洋人は如何に体格が違うか、スタイルが違うか一緒に生活していると思い知らされるのも留学の体験の一つです。

 しかし、悪い事ばかりではありません。彼らと同じキャンパスに2年間共に生活しているとこんな事にも気がつきます。少数ですが若いお嬢さん方も太りやすい体質の方、脂肪がつきやすい方が多い事。これはアメリカの食生活にも寄るのでしょうが暑い夏にはTシャツや短パンで過ごす事が多いのでそれがよく観察できるのです。すらりとした脚を想像しますが脂肪がまとわりついてぶよぶよ形の脚の人!私は「椅子のデザイナー」なのでどんな体型、体重の方が椅子に座るのかどうしても人間の体型に目がいってしまいます。欧米人にとって椅子に座っての快適な高さ、角度、大きさ、寸法とわれわれのように小柄で、胴長短足の日本人との違い。外国に旅行でなく、滞在型で長期間いるといやでも目に入ってきます。アメリカに留学後、展示会を見にヨーロッパ、特にドイツとイタリア、デンマークに何度もいく機会があり、東ドイツではバウハウスセミナーで2週間デッソウ・バウハウスに滞在したおりでは東欧諸国の人とも会う機会があり、その関係でチェコやハンガリーにもいく機会がありましたが、ヨーロッパの人とアメリカとは同じ白人でも体型が似ているようでもありながらずいぶん違うという事も感じます。その土地、土地での食生活が人間の体型を変えて行くのだと思います。でもただ一つ言える事は小柄な日本人には小柄な日本人向けの椅子が快適な生活を送ろうとすれば絶対必要だと確信した事です。これは今も全く同じです。こんな事を体験しながら卒業制作も無事完了し、クランブルックミュージアムでの卒業制作展にワイヤー椅子を展示。卒業式を迎えるばかりになりました。

「グリッド+3原色布立体絵画」

「グリッドシステムベンチ-1」

「グリッドシステムベンチ-12」

「グリッドシステムベンチ-3」

「グリッドテーブル」

「グリッドソファー&テーブル」

   2013年8月31日  井上 昇

2013年09月30日(月)

● 井上昇のいすの話-40 Part 2

卒 業

 アメリカの学年の終了は5月です。9月の紅葉の時に学期が始まり初夏に終わる。修士論文を卒業制作の作品写真をもファイルし編集、作成します。それを専攻の科の教授に提出しサインをもらいます。今はパソコンでまとめますが、私のときはタイプライターです。そしてその卒業論文ファイルは卒業生全員、クランブルックの図書館に永久保管されます。私が死んでも保管され続けるでしょう。そしていつでも閲覧できる様になっています。私は日本人ですから日本の留学生の先輩の卒業論文、ファイル等も閲覧し、参考にしながら作成しました。日本で知られた名前では建築科の卒業生の中に「槙文彦」氏がいます。槙さんはクランブルック卒業後、ハーバード大学の大学院に行かれています。

 美術の大学院大学ですから各科の全員の卒業制作をキャンパス内のクランブルック・ミュージアムに展示。最後に卒業式で一人一人名前を呼ばれ、学長から修士号(MFA・マスター・オブ・ファインアーツ)の卒業証書を受け取り、2年間のクランブルックでの学業生活は終わります。2年、正確には9月に始まり5月に終わりですから1年と8ヶ月の大学院の生活に終止符を打ちました。2年生の後半は卒業制作のワイヤー椅子7脚の製作に夢中で過ごし、滑り込みで完成と同時に卒業制作展。卒業式も終え卒業するという留学の目的は達成です。

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「帰国へ」
 その重圧と緊張感から解放されほっとする事はしましたが、卒業後2〜3年、いやそれ以上の年月、夢の中で学校の授業でまだ取りこぼしがあって卒業できないのではないか、提出していない論文と作品を出さなきゃとの悪夢?をなんどもみてうなされた事がよくありました。しかし、夢から覚めてみるとそんな事はない、もうすべて終わったんだ、もう大丈夫、作品は提出し終わって無事卒業しているんだと言う安堵感を何度か経験しました。母国語でない言葉でそれも外国で母国語の優秀な同級生に負けないで、ハンディーを乗り越え!日本の様に入学したら全員が卒業できるという所と違い、成績が悪ければ追い出されるというプレッシャーの中での日々。特に35才〜37才という年齢と家族も巻き込んで、脱サラし、借金し、それでいて全く英語が苦手という中で留学を決断し、実行した私にとって、無事卒業できた事は卒業できず逃げ帰ったという恥をかかずに済んだというだけでも実をいうとほっとしたのです
 
クランプルック・ミュージアムでの卒展:1981年

クランブルック卒業証書「MFA・修士」

全学科同期73名の卒業生リスト
私の名前は、左下から14番目

椅子のデザイナーの価値。寸法の解釈の意味。
 しかし、良い事もありました。30代半ばで入学したので留学前、日本の大手家具会社でアメリカでも一目おかれる、椅子のデザイン開発の実績、それもコンピュターチェア、OA事務用椅子開発の作品があったので、実績、実力的には同じ年齢のクランブルックのデザイン担当教授よりもはるかに実績があったので、英語の問題以外はあまりビビる必要はなかったのです。そして事務用の椅子をデザインするという事の意味がアメリカでどれだけ評価が高いか、留学して初めて解った、理解したのです。このことが解ったというだけでも留学した意味、価値は十分あったのです。そしてもう一つ大切な事を留学で学び、体験しました。それはスケールです。日本は今はメートル法を使っていますが、アメリカはインチです。日本ではなじみが薄いですがアメリカの工業製品は皆、インチで作られています。インチはヒュウーマンスケールで人間の体の寸法から引きだされた寸法で、日本の尺貫法にとても良く似ています。畳が3尺×6尺。約90センチ×180センチという具合です。今でもベニヤ板や住宅のモジュールでも尺貫法の寸法をメートルに直して使うぐらいですからインチや尺などの使い勝手は家や家具等の人間が使う空間の設計、開発にはとても意味を今でも持つのです。アメリカ留学以来、私の椅子はすべてインチで設計し、後でメートル表記に直しています。帰国してから360万脚以上、私が設計、デザインし生産、販売された椅子は全部インチで設計したものです。
   
アメリカの人間工学資料(左の写真)、アメリカの家具の寸法資料(右の写真)
卒業後

 卒業式が終わるという事は卒業後の生活が始まります。アメリカのクラスメイトはそれぞれに就職をさがし、ニューヨークや地元に戻ったり大学の教員になるべくジョブハンティングに散って行きます。留学生にはアメリカの大学院に在籍すると卒業後半年間の滞在ビザが許可されます。クランブルックに来るアメリカ人は修士号を取るのが目的で大学の教員になる事をめざす人が多く、留学生は就職して滞在ビザを取得しアメリカに移民する事を目的にする人が多い事が現実です。ですから日本人は留学後帰るというとなんで帰るのと度々いわれました。私は可能なら卒業後アメリカで仕事ができるならしばらく就職してから日本へ帰ろうかなとアメリカに留学する一般の日本人と同じ考えでいました。しかし、クランブルック在学中に私のデザイン科の担当教授、マイケル・マッコイと同じミシガン州立大学出身で仲のよい、アメリカの大手家具メーカー、ノル・インターナショナル社のデザイン部長が、私の在学中、クランブルックに度々来ていて、私の卒業制作の椅子に興味を示してくれたことを幸いに、ノル社に製品化の提案を申請する事にしたのです。

デザイン部長をはさんで教授と私
クランブルック内にて。
3人とも同じ年


クランブルック卒業から5年後
ワシントンDCのデザイン会議にて

 そして、その返事を待つという形で約半年間、卒業後も在学中と同じアパートに滞在することに結果としてなってしまいました。というのもノル社には多くのデザイナーが作品を製品にしてほしいと提案する事が多く、その提案作品を社内で時期を決めてまとめて検討、審査し返事をするということでした。内心ではダメで元々と思いつつも、もしかしたらとの少しの期待を持ちつつその返事を首を長く待ちつつ、他の就職先を探していたのです。その背景にはクランブルックはハーマン・ミラー社でチャールズ&レイ・イームズがその発展の基を築いた様に、ノル社もクランブルック抜きでは考えられない会社なので伝統的にクランブルックの卒業生は一目置かれるという背景があります。クランブルックの先輩でノル社やハーマン・ミラー社、スティール・ケース社等に就職し活躍している人が昔も今もとても多いのです。アメリカの就職探しにおいても、私は椅子のデザイナーですから椅子のデザインが出来る所に焦点をあてて手紙を出したのです。ハーマン・ミラー社のデザイナー、ドン・チャドウイック事務所やその当時ノルの椅子のデザインで有名なニールス・ディフェリエント事務所等。しかしどちらも事務所でデザイナーを採用する予定はありませんとの丁寧な手紙が帰ってきました。

ドン・チャドウィック
後にビル・スタンプと共に
アーロンチェアーもデザイン。

 あとで解った事ですがアメリカではデスクシステムなどの大掛かりな開発をする場合は人数を必要としますが、椅子のデザインの場合は作家的なデザイナーが多く1人でやっている事。そしてアメリカの開発の進め方はメーカーから開発のプロジェクトがデザイン事務所に依頼された場合、予算が付き、それからその仕事にふさわしいデザイナーを集めてチームを編成。そのプロジェクト、製品開発が終わればそのチームは解散。即ち首にするというのがアメリカのデザイン開発のスタイルだったのです。ですからそういう時期にうまくマッチしタイミングが合わないと就職は難しい事が後で解ります。まして椅子の場合は個人事務所が多いので現実には無理な場合が多いのでした。後に私が東京で椅子の開発事務所を立ち上げた時、その事が良くわかりました。椅子はパーソナルワークでグループワークではないのです。そんなこんなで時間がどんどん経過するうちノル社のデザイン部長も心配してくれて、ノルの社内デザイン部で仕事をすることなら就職の可能性はなくはないからとりあえず、フィラデルフィアの北、イーストクリンビレにあるノル社の工場に付属した社内デザイン部を見に来ませんかとの手紙を頂きます。

ニールス・ディフェリエント
デザインのノルのベンチ


ニールス・ディフェリエント氏
とシカゴのネオコンで・10年後

就職旅行

 いつまでも中途半端な形でアメリカに家族を抱えて滞在する事も出来ず、その限界もありある意味でケリを付けるためと、せっかくのノルのデザイン部長の配慮をありがたく受け止め、面接に行く事にしました。そこでもし万が一就職することになったとしたら、どんな所に住むことになるのかその場所の確認と、卒業後の久々のアメリカ東部のドライブ旅行をも兼ねてペンシルバニア州の東の外れにあるイーストグリーンビレに家族と一緒にいくことにしました。イーストグリーンビレはアメリカでは中東部、ミシガン州デトロイトと違ってフィラデルフィアやニューヨークに近くアメリカ独立の建国の地、東部に属します。人種問題抜きに考えられないアメリカという土地柄から考えると、日本人という立場からはカリフォルニア州に住むのは日本人も多く、それほど人種的偏見は少なく、むしろ日本人はまじめで優秀というイメージが比較的、定着して住みやすいといわれていました。日本の会社の駐在員ならまだしも、一般の日本人が東部、それも大都会ではなく郊外の町に住むのは何かと難しいと私の留学した当時はそんな雰囲気がありました。


ペンシルバニア州ピッツバーク


ペンシルバニア州アレンタウン

イーストグリーンビレは小さな街ですが、近くにはアレンタウンという、大ヒットした流行歌にも歌われた、サンフランシスコにも似た美しい街があります。前にも書きましたがフィラデルフィア地域はアメリカでもミシガン州と並ぶ家具の州でもあります。そんな背景の基にデトロイトからいつもの、オハイオターンパイク(高速道路)を走り出発です。
寄り道:ピッツバーグ・フォーリングウォーター見学

 そのドライブの途中に私達の家族にとって行きたかった所、訪問したかった所があります。一つ目は途中のピッツバーグの郊外にあり、フランク・ロイド・ライトが設計した最高傑作の一つ、フォーリングウオーター(落水荘)と二つ目は南北戦争最大の激戦地、古戦場ゲティスバーグです。

  
フランク・ロイド・ライト設計:フォーリングウォーター(落水荘)
 行きにフォーリングウォーター(落水荘)に寄り、帰りにゲティスバーグを訪問しました。ピッツバーグで一泊。翌日、郊外のうっそうとした林の中にあるフォーリングウォーターにむかい駐車場に到着。建築ガイドツアーがありそれに参加。なんと幸運な事にツアーガイドはこの別荘の持ち主の孫カウフマン氏自身でした。フォーリングウォーターはピッツバーグのデパートのオーナー、カウフマン氏がフランク・ロイドに別荘として依頼して建てた建物。小川の流れの上に建てられ、フランク・ロイドが仕事が少なかった50代の10年間の中での建築。同時期、このフォーリングウォーターと日本の帝国ホテルがフランク・ロイド・ライトの代表作となりその後の復活の契機となった作品として有名です。数あるライトの作品の中でも代表作でしょう。私達に取ってこのピッツバーグの郊外にある落水荘はこのチャンスを外したら絶対見れないとの思いがあり見に行ったのです。結果的に「フォーリングウォーター」の本の著者でオーナーでもあるカウフマン氏に直接ガイドしていただける幸運に恵まれ大満足で隅々まで見ることができたのは最高でした。
   2013年9月30日  井上 昇

2013年10月28日(月)

● 井上昇のいすの話-41 Part 2

ニールス・デフェリエント氏を悼む

 いすの話、10月号は就職旅行の続きを描く予定でしたが、ここでどうしても書きたい事が出てきましたので少し中断して書く事にします。人生の中では様々な人と出会います。35才で会社を辞職しクランブルックに留学しなかったら絶対出会えなかった人は沢山いますが、その中でもアメリカで、レイ・イームズに次ぐ椅子のデザイナー、アーロンチェアーのビル・スタンプ以外で最も影響を受け、交流できた尊敬するニールス・デフェリエント氏をもう少し詳しく紹介したいのです。というのも、依頼されていた大学での講義「椅子と人間工学」の内容を日米比較で話そうと編集していて、アメリカの椅子の人間工学の第一人者で椅子のデザイナーの現役でもあるニールス・デフェリエント氏のことをネットで検索していましたらなんと今年の6月8日に85才で亡くなられていました。知らなかったとはいえとてもショックでした。最近はアメリカに行っていないのでお会いする機会もなく過ごしていましたが、ネット上では良く拝見していたのでいつまでも元気と勝手に思い込んでいたのです。クランブルック留学中はもとよりその後、9年前まで20年間毎年アメリカに行き、特に6月のシカゴ、ネオコン全米家具見本市は欠かさず行っていたのでそこでよくあって話したりしていました。その他、卒業後、2回クランブルックでのOB会、日本に来日したときの案内など折に付き合う機会が多くありました。

● バックナンバー
タイトル
2017年のいすの話
2016年のいすの話
2015年のいすの話
2014年のいすの話
2012年のいすの話
2011年のいすの話
2010年のいすの話
2013年01月05日(土)
「クランブルック入学」
2013年02月13日(水)
「キャンパス生活・独立」
2013年03月07日(木)
「クランブルック生活」
2013年04月10日(水)
「一年目の夏」
2013年05月10日(金)
「ニューヨークからボストン」
2013年06月29日(土)
「クランブルック:2年目」
2013年07月26日(土)
「卒業制作に向けて」
2013年08月31日(土)
「プリントメーキング」
2013年09月30日(月)
「卒 業」
2013年11月30日(土)
「East Greenville」
2013年12月30日(月)
「帰国へ」
 私と同じくこちらも同じオフィスチェアーのデザイナーで人間工学の権威で同じクランブルックの卒業生の大先輩として気軽に交流が日常的だっただけに亡くなられた事にショックを受けたのです。ニールス・デフェリエント氏に最初にお会いしたのは35才の留学一年目の時。クランブルックミュージアムで、Knollで製品化されたばかりの、デフェリエントチェアーの展示会とレクチャーがありそこで会いました。2回目は同じ年のニューヨーク。秋のニューヨークトリップでまだデフェリエント氏が在籍していた大手デザイン事務所、ヘンリードレフス事務所で事務所を案内してもらいました。その時、Knollのデフェリエントチェアーの1/1の造形モデルを見せてもらい大感激した事があります。そして前にも書きましたが就職の依頼の手紙をだして、採用の予定がないからと丁寧な手紙をもらった事。

  
    Knollベンチ・日本の成田空港でも使われている。


アメリカのヒューマンスケール
研究者の一人


旅客機シートの研究と設計
ヘンリードレフス事務所


Knoll デフェリエントチェアー
1979年、51歳

椅子のロイヤリティー

 しかし、本当のおつきあいは、日本に帰って来てからでした。私が帰国後の3年目、大阪の大手オフィス家具メーカーから事務用椅子をデザインする機会がありそれが、結果的に300万脚の生産をする大ヒットの椅子になるのですがデザイン契約はロイヤリティーではなく一回限りの支払い。さらにカタログには創作者である私の名前はどこにもありません。当時も今も日本ではこれが普通なのです。しかし、これがアメリカやヨーロッパでは、椅子のデザイン契約はロイヤリティーが通常のこと、創作者のデザイナーの名前がカタログばかりでなく生産された椅子、一つ一つに誰がデザインしたかクレジットを明記するのが普通です。日本と違いアメリカで事務用椅子のデザインをする事は椅子のデザイナーにとってトップレベルのスターデザイナーのデザイン領域という認識があります。ですから私が私がデザインした事務用椅子のカタログを持参し、アメリカの、デフェリエント氏を含むアメリカのデザイナーの友人にみせたところまず第一の質問が凄いね、ロイヤリティーが沢山入って良いね!といううらやましいという反応です。しかし、カタログを見るうち、inoueの名前がどこにあるの、なんでないのという質問に変わります。日本ではロイヤリティーは難しく、名前入らないのが普通というとこんな質問に変わります。あーそうか!日本人は物まねやっているんだ、だからロイヤリティー契約もしないし、創作者の名前も載せないんだと。軽口たたいたり、軽蔑の態度に出てきます。


1984年、日本の大手オフィスメーカーK社から発売された私の帰国後のオフィスチェアー

 こういう事を言ってくれるのは親しい友人のデザイナーだからでその他の部外者ははなから軽蔑の態度を向けられます。その時、私がどんなに傷ついたか想像にお任せします。日本という国はそんな国なんだ、そういうデザイン後進国なんだ!と馬鹿にされたようなものです。そこで私はもの凄く傷つきました。それは2つのことにです。1つは椅子のデザイナーとしての自分の未熟さと、ふがいなさ!2つ目は日本が個人の創作を尊重しないそんな東洋の後進国であると侮辱された事。海外経験すると一部の例外者を除いて、日本を愛する愛国者になります。自分が馬鹿にされてもそれは我慢するとして、愛する日本が馬鹿にされたら日本男子としてそれはもう我慢が出来ません。少なくも私はそうです。そんなとき当然、面識もあったニールス・デフェリエント氏にも私の椅子カタログを見せた時、こんなアドバイスをしてくれました。決して忘れません。「椅子のロイヤリティー契約はアメリカでも以前からあったものではないんだよ。私達デザインビジネスに関わるデザイナーが団結し、結束してクライアントと交渉し、大変な努力をしたのち勝ち取った契約なんだ。アメリカでもそうしたのだから日本が現在そうでないなら日本でもデザイナーが結束してそのようにしなければそう成らないよ。だから日本もそういう契約が出来る様に日本のデザイナーがアメリカの様に結束してそういう契約が可能になるよう戦いなさいと!そして、あなたが最初にやるべきです」。このアドバイスは決して忘れることができない言葉と成りました。デフェリエント氏から私に直接言われた言葉、アドバイスとして、その後の私の椅子デザインビジネスの「格言」として一生を左右する言葉となりました。

 その背景にはもし日本が世界で一流の先進国として自認するなら「契約」も先進国と同じでなければ先進国とは言えない。それはとても恥ずかしいという事ということがあります。愛国者としての日本の為に「日本で欧米と同じ契約で仕事をする」その価値は十分あると思えたしそれが私の使命と確信したのです。アメリカに行かなかったら、アメリカに留学して友人を持たなかったらこんな事すら気付かなかったでしょう。

椅子の創作と契約
   
1982年:千葉大学人間工学研究室でのミーティング(左の写真)、同記念撮影(右の写真)

1994年クランブルックキャンパスでの同窓会
日本での戦い

 その後、K社以降、日本で私の事務用椅子のデザインは大手オフィス家具会社や天童木工、今の木の椅子のデザインビジネスも含めてほとんどロイヤリティー契約か又それ以上の契約でしか仕事をしていません。反面、ロイヤリティー契約できなければ仕事はしないということになり実力の衰えもあるのでしょうが、仕事はロイヤリティーでというと日本では仕事は来なくなってしまいました。しかし、デフェリエント氏のアドバイスを日本で忠実に実務に実行した事で3億円以上の収益を上げ、日本で本格的な量産の椅子で最初で最後の事務用椅子のデザイナーと成りました。そしてそれは今でも「木の椅子」で続いています。

 ニールス・デフェリエント氏の凄い所はどんなに逆境にあっても絶対、椅子のデザインを死ぬまで止めなかった事です。その事だけでも尊敬に値しますが、アメリカにおける椅子の人間工学の権威としてデザイナーの後輩に大きな大きな影響を与えつづけた事です。華やかな同時代の椅子のデザイナー、ハーマンミラーのビル・スタンプ、ドン・チャドウイック等の陰に隠れながらもいぶし銀としての存在感とヒューマンスケール社でのデフェリエントチェアーはアメリカでは有名です。毎年6月、シカゴで会うたびにその年齢を感じさせない粘りに大きな刺激と勇気を与えられたのは私ばかりではないはずです。アメリカのニュースでオフィスの映像が出てくるたびにデフェリエントチェアーを見つけうれしくなります。そして日本では今でも私の事務用椅子はテレビのドラマやニュースで良く見かけるのですがそれはデザインした当人だけが良く知っている事で椅子のデザイナーの大きな大きな楽しみの一つでもあります。スタジオジブリの宮崎駿さんが座っている椅子、私のデザインです。職員の方も沢山座られているので宮崎のアニメ作品は私の椅子の上で出来たのかと勝手に想像し楽しくなります。

 クランブルックの大先輩でもあり、椅子の人間工学のアメリカでの師匠、そして84才で死ぬまで椅子の現役のデザイナーでありつづけたニールス・デフェリエント氏のご冥福を祈ります。ありがとうニールス・デフェリエントさん。あなたの粘りのスピリッツを日本で受け継ぐ事を誓います!また、天国でお会いできるのを楽しみにしています。


NIELS DIFFERIENT
1928-2013
 
第一作 フリーダムチェアー 1999年71歳
   
第二作 リバディチェアー 2004年76歳(左側)、 第三作 ワールドチェアー 2009年81歳(右側)
   2013年10月28日  井上 昇

2013年11月30日(土)

● 井上昇のいすの話-42 Part 2

ペンシルバニア州・イーストグリーンビレ(East GreenVill)

 ピッツバーグ経由で,フランク・ロイド・ライトの落水荘も見た後、フィラデルフィアの北にある小さな街イーストグリーンビレに到着。日本で言う郊外の小都市です。ノル社の家具工場の隣、敷地内にデザイン開発セクションの別棟があります。場所を確認した上で、近くのモーテルに宿をとります。見知らぬ東部の簡素な田舎町という表現が当てはまり、もしかしたらこんな所に住む事になるのかしらん!まだ就職するか、出来るかどうかも全くわからないのに、まわりの景色に何となく心細さを覚えながらのイーストグリーンビレ滞在です。

Knoll社訪問

 翌日、家族をモーテルに残し、手紙で予約していた時間に車で、1人、ノル社の工場に行き、工場のそばのデザイン室を訪問。驚いた事はそのデザイン室のある別棟は外からはあまりさえないごくありふれた、どちらかというとノル社の華やかなイメージとは随分ちがう質素な質素な建物です。しかしドアーを明けて一歩なかに入ってびっくり。そこにはあの素晴らしいノルワールドの世界が目の前いっぱいにひろがっているではありませんか。

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2010年のいすの話
2013年01月05日(土)
「クランブルック入学」
2013年02月13日(水)
「キャンパス生活・独立」
2013年03月07日(木)
「クランブルック生活」
2013年04月10日(水)
「一年目の夏」
2013年05月10日(金)
「ニューヨークからボストン」
2013年06月29日(土)
「クランブルック:2年目」
2013年07月26日(土)
「卒業制作に向けて」
2013年08月31日(土)
「プリントメーキング」
2013年09月30日(月)
「卒 業」
2013年10月28日(月)
「デフェリエント氏を悼む」
2013年12月30日(月)
「帰国へ」
 外部のあの質素な建物の印象と180度、全く違うのです。まさにディズニーワールドならぬ、家具のノルワールドの世界がそこにありました。ノル社の生産現場の本拠地に来た、今自分はそこにいるんだとの気持ちの高ぶりをおさえつつ受付で予約の面接に来たことを伝えます。担当者がすぐに出て来て出迎えてくれます。とてもフレンドリーで私に心配りをしてくれているのが良くわかります。そしてそんなに広くはない建物内を案内、働いている仲間を次々に紹介してくれます。事前にノル社のルーツとも言える、クランブルック卒業生の日本人が来るということを皆知っていてとてもなごやかです。ノル社にとってクランブルックは特別な意味を持つこと、それもみんな知っていて、社内にもクランブルックの卒業生、先輩も少なからずいます。そんな雰囲気の中での面接というかミーティングに入ります。
East GreenvilleのKnoll社の工場


Knoll社の工場内部

 
    Knoll社のイメージ広告

Knoll社のショールーム
 現在のノル社の開発セクションは社内的にどんなポジションか。ここで働いている人たちがどんな仕事をしているか等々、丁寧に私に説明してくれました。面接というよりノル社の開発セクションがどんな仕事をするところかという社内の仕事の説明です。ノル社の開発セクションは内部では製品デザインはせず、外部デザイナーからの提案の家具を製品化するのが仕事。つまり、社内では家具デザインはせず、製品プロジェクトのディレクターとして製品化のための実務、業務をするのが一番の仕事。仕事は電話でのやり取りでの調整や、コーディネーション、ディレクションが主体。そういう仕事がここの仕事ですというような説明を受けます。入社するかどうかはその後の事なのでまず職場の現場と仕事の内容の詳しい説明を聞いてその日のミーテイング、面接は終わりです。
Knoll社の工場見学

 その後、ノル社の名作家具、椅子を作っている工場の中を丁寧に案内、説明してくれました。1年前にハーマンミラーの工場を見た後なのでハーマンミラーと並ぶデザインでは定評あるノル社の工場見学は興味津々。訪問前は面接の事で頭いっぱいで工場まで見れるとは全く考えていなかったので、このノル社の工場見学ツアーは生涯忘れられない素晴らしい体験となりました。今でもはっきり目に焼き付いています。
ノル社の工場ではクランブルックの教師だったハリー・ベルトイアのワイヤーチェアーの製作現場や、フロレンス・ノルデザインのあの素晴らしい大きな大理石テーブルの製作の様子が目の前に広がっています。見学中、グリーンの大理石の楕円テーブル天板が完成し、それを男性4人で目の前を運んでいる時、突如バラバラに割れて、オー、ノーという声とともに崩れ、がっかりした叫び声、ため息が聞こえます。ノル社の大理石テーブルはとても綺麗ですが作るのは大変だなーと見学しながら思った事でした。そして工場見学を終えた後、開発セクションのディレクターに見送られノル社を後にし家族の待つモーテルに戻りました。

フロレンス・ノル デザインの大理石テーブル:ワイヤーチェアーの工場現場


ハリー・ベルトイアの
ワイヤーチェアー
リチャード・シュルツ邸訪問

 ノル社を訪問した翌日、ノル社のガーデンチェアーシリーズのデザイナーとして有名なリチャード・シュルツ、愛称、ディック・シュルツさんがたまたま開発セクションに来ていて前日お会いしたこともあって自宅に来ないかとのお誘いを受け、家族でお宅を訪問。シュルツさんはノル社の工場の近く、同じイーストグリーンビレに居をかまえ住んでいたのです。田園の中の広大な敷地の中に住居があり、天気がよかったので庭のテラスで飲み物とお菓子の接待を受けました。息子さんが日本でホームスティしたことがあり、大変お世話になったので、感謝も兼ねて私たちが日本人ということでそのお礼もあって招待したとのこと。家の前の広い庭の中を野うさぎが飛び跳ね、それを犬が追いかける。絵本の中に出てくるような光景が庭には広がっていました。


リチャード・シュルツ氏


シュルツ氏デザインの
ガーデンチェアー

ゲティスバーグ

 2泊のイーストグリーンビレ滞在の後、デトロイトに向けて帰ります。その途中、同じペンシルベニア州、ゲティスバーグ市にあるゲティスバーグ国立軍事公園によりました。南北戦争の古戦場として有名なゲティスバーグは広大な公園で、南北戦争当時使われていた大砲があちこちに配置されていて古戦場特有のもの悲しさを味あう事ができました。この悲惨な歴史の上に今のアメリカがあることが訪問者に良く理解できる様になっていました。しかし、ゲティスバーグは観光地化されていて、来る時立ち寄ったフランク・ロイド・ライトのフォーリングウオーター(落水荘)訪問ほどの感激はなく広大な戦場跡の要所を短時間でみたあとひたすらデトロイトへドライブ。アメリカ中東部ハンティングジョブのトリップは終わります。

ゲティスバーグ国立軍事公園

デティスバーグの戦い

決  断

 ノル社の訪問を終えてミシガンの自宅に戻り考えました。ノル社の社内でデザイナーでなく、職員として、製品開発のディレクターの仕事が果たして自分に出来るのか!、又やりたいのか?。答えはNOです。まず社内でのコーディネータとしての仕事をするにはアメリカ人と対等の交渉が出来る語学力が必須です。それは私には無理です。次に自分が一番やりたい椅子のデザインをする為にアメリカに留学、ここに来たのに本来のそれが出来ない。それで良いのか?答えはNOです。私は日本でノル社と同じ規模の大手家具メーカーで11年働いた経験があるのでたとえアメリカだとしても同じような仕事はもうやりたくないしやる意味はない。そして、すでに年齢的に37才になっている状況下で、デザイナーでない仕事を数年働いた後、40才過ぎて新たにデザイナーとして日本で仕事ができるか?これも答えはNOです。遅すぎる。すでに2年、仕事からはなれ、実務からもはなれて自分のデザイン実績が残せない仕事に時間を裂く事はプラスにならない。


現在のイーストグリーンビレ
Knoll社工場


アパートから見えるミシガン州の
冬景色

 もしノル社で万が一にも採用されたとしても、どう考えてもノル社の条件でこのままアメリカで働くことの可能性が見えてきません。ノル社で働けない、働かないとしたら滞在ビザも切れることになります。このままアメリカにいても経費もかかりその先が見えてきません。日本に帰ろう。もうここいらが見極め時。そして今帰国すれば子供の日本での小学校1年の入学にも間に合う。もうこれ以上中途半端な生活をつづけて家族にも親にも心配をかける訳にはいかない。当初の目的であるアメリカ滞在2年の希望は果たし、大学院も無事卒業した。ダメ元でノル社に私の椅子を製品化してもらう提案から始まり、その結論はまだ出ないものの(帰国してから製品化出来ない旨の通知が来た)、それが縁でノル社のペンシルバニア州・イーストグリーンビレへの訪問に行った事ではっきり答えが出、日本に帰る決断がつきました。卒業から6ヶ月過ぎてもう冬になっていました。そして日本に帰る準備に入ります。
 海外に留学した経験のある方は判ると思いますが、海外留学後、駐在員としての仕事でなく、現地の会社に仕事を得た場合、今度は日本に帰るタイミングがとても難しいのです。現地でキャリアを積み実績が出来、収入が安定すればするほど益々難しい。これはアメリカばかりでなくヨーロッパやその他の国でも同じでしょう。自費で留学して現地で働くことが出来た場合、もし日本に帰りたいと思う時、いつか決断をせまられます。経済的に安定した現地に残るか、現地のすべてを捨てて日本に帰るか!わたしの友人で大学卒業後フランスに彫金の仕事で5年の計画で修行に出かけ帰る予定が、すでにフランス滞在45年という人がいます。理由は日本でフランスでのような良い仕事がないこと、フランスでの実績があり生活が成り立っていて経済的に安定した環境を放棄してまで日本に帰れないこと等。留学並びに海外で仕事をする場合、帰国するか現地に残るかの決断は必ず直面する大きな大きな課題なのです

クランブルック学位授与式。一人一人が学長から卒業証書を呼ばれて手渡される。
   2013年11月30日  井上 昇

2013年12月31日(火)

● 井上昇のいすの話-43 Part 2

帰国へ

 帰国と決めてからまた忙しい日々が始まります。家財の整理とそして帰国の費用の工面。できるだけ生活用具は慎ましやかにしていて家具らしい家具は持っていませんでしたがそれでも2年半の生活でいつのまにか増えているものがあります。その第一は学校での作品。全部すてることは出来ず、卒業制作を含めクランブルックでの作品や必要最低限の生活用具を残した後の家財を梱包し、3ヶ月かかる安い船便で送ります。そして日本からアメリカに来る前、家族に約束したことを果たさねばなりません。それはロサンゼルスのディズニーランドに連れて行く約束です。今では日本にもディズニーランドはありますが当時はアメリカだけです。ロサンゼルスには先に書いた、第2次大戦時、マンザナールの日系人収容所に収容された体験を持つ義叔母が海沿いの町、ハンティントンビーチに自宅を持ち、従姉と生活しています。帰国時に泊まって行くように誘われていたので日本に帰るとき義叔母の家に滞在する事、アメリカに来る時から決めていました。フォトグラファーで従兄、カズ・イノウエの実家です。ロサンゼルスには私にはもう一つ大きな目的がありました。サンタモニカの隣、ベニスビーチにあるチャールズとレイの事務所、「901」スタジオ訪問です。

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2013年01月05日(土)
「クランブルック入学」
2013年02月13日(水)
「キャンパス生活・独立」
2013年03月07日(木)
「クランブルック生活」
2013年04月10日(水)
「一年目の夏」
2013年05月10日(金)
「ニューヨークからボストン」
2013年06月29日(土)
「クランブルック:2年目」
2013年07月26日(土)
「卒業制作に向けて」
2013年08月31日(土)
「プリントメーキング」
2013年09月30日(月)
「卒 業」
2013年10月28日(月)
「デフェリエント氏を悼む」
2013年11月30日(土)
「East Greenville」
 レイ・イームズとクランブルックであった時、日本に帰国する時スタジオに来なさい。案内してあげると言われていたからです。その時、レイからはこんなアドバイスを受けていました。デトロイトから大陸横断してロスまでドライブして来なさいと。途中、素晴らしい景色、見る所がたくさんあるから見て楽しんで来るようにと。しかし家族の帰国費用の工面と車の処分を考えると唯一の高額?商品である車を売らないと帰国費用は出てきません。それと、ミシガンの車はよその州では人気がありません。安く買いたたかれる事があります。それはこういう理由です。ミシガン州はアメリカの州のなかでも北にある州なので冬は零下20度ぐらいになります。雪も多いので高速道路は雪が降るとすぐ塩をまく除雪散布車がでてきます。今の日本では当たり前の風景にもなっています。つまりミシガンの車は塩害により傷みがひどいのです。友人の車は底が抜けて道路が見えながら走っている等良くありました。その留学当時、日本みたいにアメリカでは車検制度等ありませんから車は全部自己管理にまかされています。アメリカに行くと信じられないようなポンコツ車が走っていた時代です。ですから痛みの激しいミシガンの中古車は他州では敬遠され売れにくいのです。ということで結果的に私の車、アメリカンモータースのペーサーは幸いなことにというか、申し訳ないというべきか、クランブルックの後輩で友人の日本の留学生に買ってもらえ帰国費用になりました。

 いざ車を手放してみるとアメリカでは自分の車がないということは翼がない鳥と同じでとても不自由です。帰国準備のわびしさはひとしおです。しかし、1年後輩で台湾からの留学生の親しい友人がその後の諸々の手助けをしてくれて助けてくれました。単身で留学して来た彼は在学中、寂しがりやで学校ばかりでなく私の家族とも何かとおつきあいしていたので私たちの困っている時、親身にサポートしてくれました。こちらもこれはとても助かりました。日本では海外の友人はなかなか出来ませんがアメリカの学校に留学することで台湾や香港、タイ、フィリピン等の同じアジアの友人が出来たのです。海外に留学することでアメリカ、ヨーロッパだけでなくアジアの友人も出来、彼らをとうしてその国の事情、友好と理解を深めることが出来、これはとても貴重な体験になるのです。話せる親しい友人がいればその国に対する理解度が深まります。その意味で日本の政治家、教育者は若いときに海外の留学を経験すべきです。これは理屈でなく体験と経験をとうして他国に対する思いやりと狭い偏狭な視点から離れ、世界の友人との交流から彼らの考え方、日本の外から見える違った発想、意見を聞けるメリットはとても大きいのです


私のアメリカンモータース社
「ペーサー」


アメリカンモータース社
「ペーサー・ツートン」


アメリカンモータース社
「ペーサー・イエロー」


台湾の後輩で親友のティン

ロサンゼルス滞在

 荷物も全部日本に送り、車も売却し、アパートの鍵も返し、年も改まった1982年の1月早々、2年半滞在した思い出深いミシガンを去る日が来ます。朝、ポンティアック市に近いブルームフィールドヒルズ市のアパートからデトロイト空港迄、台湾の後輩に家族3人と荷物を車に乗せて送ってもらい空港で見送られ別れを告げました。約5時間のフライトの後、夕方、雪のデトロイト空港から雪のない暖かいロサンゼルスの空港に到着。空港には前もって知らせておいたので義叔母が車で迎えに来てくれました。


ロサンゼルス・ハンティントンビーチ
 空港から南に下りハンティントンビーチの自宅に到着。ここに2週間滞在します。義叔母には孫がいなかったので子供を連れての私たち家族の2週間の滞在は義叔母にとっても嬉しいことでもありました。滞在中、戦争中でのマンザナール強制収容所での体験やそれ以前の叔父との出会い、以前住んでいたスタックトンでの農場生活などの話し等を生で聞くことが出来、日系移民の苦労と日系部隊のヨーロッパ戦線での活躍などなど話がつきません。日本人がアメリカで住むことの苦労は長年住んでみなければ判らないことです。家内の親戚もロスの郊外に住んでいて訪問したりしました。その時からそれ迄、戦後のどさくさで長らく疎遠だったアメリカの親戚との交流がわれわれの留学によって再会しその後、義叔母や従姉も日本に何度か来ることにつながり、現在も交流が続いていることは留学の楽しい副産物の一つです。
 
マンザナール強制収容所(左側)、ロサンゼルス・ディズニーランド(右側)

アリゾナのハイウエイ
アリゾナ、グランドキャニオンとタリアセンウエストの旅

 ロサンゼルスは車なしでは一歩も外へでれません。といって義叔母の足でもある義叔母の自家用の車をいつも使う訳にもいきません。そこで日本に帰国の時のこと考えて、空港でレンタカーを借りることにしましたがここで困ったことが起きました。レンタカーを借りるときクレジットカードがいるのです。クレジットカードがないと車を貸してくれません。その時は無職でしたし日本ではまだカードを持つという習慣のあまりない時代でしたからあいにくカードは持っていきませんでした。それ迄は現金とトラベラーズチェック、ミシガンの銀行の小切手、現金で済ませていましたからそれで済んでいましたが、クレジットカードがないとまるで信用がなくアメリカでは何も出来ないということの現実を知らされます。アメリカにおいてクレジットカードは身分保障の意味も兼ねているのです。みかねた義叔母が保証人になってくれて、年取った義叔母のカードでレンタカーを借りることが出来ました。この出来事は無職の信用のなさ、不自由さ、やるせなさを十分味わいました。

 自前の車が使えるようになって早速、家族を約束のディズニーランドに連れて行きました。一日中、ジェットコースターに乗ったり、色々なパビリオンを見て回り夕方迄たっぷり遊んで楽しい思い出を作り約束を果たします。

 そしてレイ・イームズからのサゼッションのデトロイトからロサンゼルスまでの大陸横断の旅を実行出来なかったかわり、2週間のロサンゼルス滞在中、4泊5日でアリゾナ州のグランドキャニオンとフェニックス市にあるフランク・ロイド・ライトのタリアセン・ウエストを見に出かけることにしました。ロスからフラッグスタッフ経由でグランドキャニオンに直行。壮大なグランドキャニオンの風景を堪能した後、フラッグスタッフに戻り南下してフェニックスへ。途中の景色は映画の西部劇でみるような乾燥地帯とロックマウンテンデザート地帯。まさに東部とは違うもう一つのアメリカがありました。


アリゾナの州境


すれ違った幌馬車隊

 
グランドキャニオン(左側)、アリゾナの山々(右側)

アリゾナのドライブ

 フェニックスでフランク・ロイドライトの学校、タリアセン・ウエストを見学。タリアセン・ウエストはライトが冬、ウイスコンシンから移動しここに学生と共に過ごしたところです。タリアセン・ウエストもそうですが建物は学生と共に手づくりで作った建物でそう立派といえる作りではありません。しかしその空間は広くフランクロイドライトが建物ばかりでなく家具迄設計し魅力溢れるインテリアが広がっています。アリゾナの砂漠気候にあった赤茶けた塗装がとても印象的です。ウイスコンシンのタリアセン・イーストとタリアセン・ウエスト。どちらが好きかといえば私はタリアセン・イーストです。タリアセン・ウエストはイーストが本家とすると別荘的な要素が強いように思います。

 フェニックスから、さらにメキシコに近いツーソンにも寄りました。ここは軍事博物館が有名でしたが見れませんでした。そして途中の街を見ながらロサンゼルスに帰りました。このアリゾナ行きは緑の多い中部、東部とは全く違うアメリカのもうひとつの世界が見れます。このアリゾナ州への旅も東部と同様、広大なのでほとんど毎日ドライブが中心の旅でした。そしてアリゾナの旅からかえってもうひとつの大きな目的の訪問地「901」スタジオにレイ・イームズに会いに1人で行くことになります。


タリアセン・ウエスト外観


タリアセン・ウエスト内観


タリアセン・ウエスト外観

  
タリアセン・ウエスト内部インテリア(左側)、同 寝室インテリア(右側)
   2013年12月30日  井上 昇