2014年1月31日(金)
● 井上昇のいすの話-44 Part 2 |
||||||||||||||||||||||||
「901」スタジオ訪問日本への帰国前の最後の大きな仕事。ミシガン州、クランブルックで2年前にレイ・イームズと会った時の約束。日本に帰る時「901」スタジオに来なさい。案内してあげるとの約束です。ロサンゼルス滞在も予定の日時も過ぎ、前もって予約していた日時に、家族を義叔母の家に残し、1人で出かけました。滞在地の義叔母の家のあるハンティントンビーチから北にハイウェーを上り、華やかなリゾートビーチ、サンタモニカを過ぎ、隣りのベニスビーチに向かいます。あこがれの「901」イームズスタジオをみつけ、駐車場に車をおいて歩いてスタジオに向かいます。はっきり言って外観はどこにでもあるごくありふれた倉庫のような建物です。入口のドアの上にあの有名な「901」の文字が見えます。ドアをあけて中に一歩はいるとそこは外とは全く違う、写真や本でみたあのイームズワールドの世界が目の前にあります。ついに来た〜!あのあこがれのイームズスタジオが目の前に広がっています。受付の女性に挨拶し訪問の予約をしていたINOUEですと伝えると、席を立ち、しばらくして中からレイ・イームズがあの人なつこい笑い顔で受付に出て来て迎えてくれます。そして開口一番、デトロイトから大陸横断してドライブして来たかと私に言います。 |
|
|||||||||||||||||||||||
それに答えていいえ、飛行機で来ましたというと、即座に、You missed (ユー、ミスッ)!とあの甲高いよくとおる声で顔をあげて私に言います。(レイは身長150センチほど、私は182センチ)良い所がいっぱいあるのにそれはとても残念だったねと。2年前に私と会ったときの事をしっかりと覚えてくれていて、大陸横断してくるのよとのサジェッションも覚えていてくれていたんだと緊張の中にも感激!私が接したレイ・イームズの印象は、ほんとに小柄ながら頭の回転の速いとても頭の良い人という感じ。笑い顔を絶やさず、よく話し、気配りをおこたらずそれでいて目が鋭い。 | ![]() eames images:book 1 1944年クリスマスカード |
|||||||||||||||||||||||
![]() ![]() イームズイメージ(左の写真)、essential EAMES展パンフより(右の写真) |
![]() Connections:の本から スタジオの入口の上の標識 |
|||||||||||||||||||||||
私が訪問した時間帯にもう1人の見学者がしばらくしてきます。建築を専攻しているアメリカの若い男子学生でした。アメリカでは学生が自分が見学したいデザイン事務所、建築事務所、スタジオなどどんどんアポイントメントをとって訪問します。とてもアクティブです。訪問される方も時間の許す限り受け入れる事が多く調整してくれます。学生にとっては最前線のデザインの現場を見れると同時にジョブハンティングのリサーチを兼ね、受け入れ側も将来の良い人材がとれるかもしれない機会ともなります。この点、アメリカはとてもオープンです。 | ||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() eames images:book 1 カード(左の写真)、essential EAMES展パンフより(右の写真) |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() IMAGES OF EARLY AMERICAより、レイのサイン入り(左の写真)、IMAGES OF EARLY AMERICAより |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() IMAGES OF EARLY AMERICAより、 |
||||||||||||||||||||||||
「901」スタジオツアー2人の訪問者をレイが先にたち、倉庫のような広いスタジオの中を案内しながら説明してくれます。なんと贅沢なガイド。このときの「901」スタジオはどんな状況だったかといいますと、3年前、チャールズ・イームズが70歳で亡くなった後、レイは数人のスタッフとともに実質的には事務所を閉じる為の残務整理中で膨大な資料を整理しているときでした。資料をミュージアムに寄贈したり、保管するリストをまとめたり、記録したり忙しくしていた時期です。後年、ここでのイームズスタジオのかなりの現物の家具や椅子、試作資料などはドイツに運ばれドイツの家具メーカー、Vitra社が「901」スタジオをそのまま再現した状況でコレクションすることになります。はっきり言ってアメリカでは資料をキープしてくれる美術館を探していた様ですがなかなかうまく行っていなくてレイもとても苦労していたようです。 |
||||||||||||||||||||||||
「901」スタジオ内でわたしが一番見たかった場所はどこだかわかるでしょうか?それはなんといってもあのあこがれのチャールズ・イームズの作業デスクです。どの机で、場所であのイームズチェアーの名作をデザインしたのか!そこの具体的な現場が見たい!「901」スタジオ訪問の最大の目的はその一点にありました。レイにそこを案内してもらうと、なんとそこには斜めに傾いたシンプルな板の製図板とアルミニウムソフトパッドハイバックのややくたびれた椅子があるだけでした。製品化された立派なソフトパッドと少し違って座面のシートがややのびきった試作品かなとも思えるソフトパッドのハイバックチェア−に座り、この製図板で図面を描いていたのか!こんなシンプルな製図台、製図板で!それが見たときの印象です。写真はチャールズ・イームズが生きていた時の机と椅子の写真で、机の前に寝椅子がありますが、私がみた時はテーブルと椅子とがあるだけでした。 | ||||||||||||||||||||||||
![]() Connections:の本から、チャールズ・イームズのデスクと椅子 1976年 |
||||||||||||||||||||||||
![]() レイ・イームズのデスク 1976年 |
||||||||||||||||||||||||
イームズ事務所の特徴しかし、イームズスタジオと他のアメリカのデザイン事務所の決定的な違い、特徴は日本のひな人形を含め、アメリカだけでなく世界中の子供のおもちゃ、貝殻、看板文字、アンティックをはじめとする楽しいがらくた?が所狭しと部屋中あちこちに一杯ある事です。まさに写真のとうり。イームズ夫妻は映像作家としてのもう一つの顔がありスタジオ内には撮影スタジオ、暗室、モデル作業所、などひととおり揃っていて案内していただきました。「901」スタジオが倉庫街ともいえる場所にあるその理由がそこにあるのです。私が訪問したときはそういう残務整理中なのであこがれの「901」スタジオもいまいち活気がありません。 レイに案内していただいたスタジオツアーも一段落した頃、ちょうど昼食の時間帯になり、食事を一緒にどうかと私と建築学生にレイが言います。もちろん時間もあり、異論はないので喜んでということで近くのイタリアンレストランに3人で行く事に。小1時間ほど食事と会話を楽しみ(男子学生がよくレイに話しかけていた)スタジオに戻ります。食事代はレイのおごり。私はいつも出かける時はカメラは必ず持参する事にしていましたが、何故かこの「901」スタジオ訪問のときはうっかり忘れてしまいせっかくのチャンスに何という事と悔やんでいると、レイが私が写真を撮ってあげる、あとで送ってあげると言います。レイもいつもコンパクトカメラを持ち歩いていて、玄関のホールの壁をバックに写真を撮ってくれました。日本に帰国後「901」スタジオの住所が記された封筒にレイが撮ってくれた写真を手紙と共に日本に送って来てくれました。 |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() Connections:の本から901スタジオ内部-1 Connections:の本から901スタジオ内部-2 |
||||||||||||||||||||||||
「901」スタジオで結果的にレイとのツーショットの写真は撮る事は出来ませんでしたが、カメラを忘れた事で、なんと、レイ・イームズ自身が撮ってくれた写真と直筆の手紙を頂くことになったのでした。カメラを忘れて本当に良かったと後で思った事でした。ちなみにスタジオの「901」の名前の由来は番地からとった名前です。
CHARLES EAMES |
||||||||||||||||||||||||
![]() レイ・イームズが撮って送ってくれた写真 |
![]() レイ・イームズからの手紙 |
|||||||||||||||||||||||
「901」スタジオ訪問を終えてチャールズ・イームズの詩的な椅子の作品をみて椅子のデザインの素晴らしさに目覚め、椅子のデザイナーを志し、椅子のメーカーに勤め、そこを辞めて、若い時チャールズ・イームズとレイ・イームズが教え、学び、出会い、そしてハーマンミラー社やノル社などの家具分野におけるアメリカモダンデザインのルーツ発祥の場所とも言えるクランブルックに家族と共に自費で34歳で入学し卒業。直接チャールズ・イームズには会えなかったものの、そのパートナーであるレイ・イームズに会い、その後輩となり、そのレイの誘いで、チャールズ&レイ・イームズがそのほとんどの名作を生み出したベニスビーチの「901」スタジオを訪問し、レイみずからがスタジオを案内し、説明していただいて見ることが出来た。なんと言う感激。さらに、レイ自身に写真を撮ってもらい手紙付きで帰国後送っていただいた。なんと言う贅沢、なんと言う幸運。多大のリスクと借金をかけて決断した英語学校を経てから37才までの2年半のアメリカ家族留学の時間はこうして終わりを告げたのでした。 2014年1月31日 井上 昇 |
![]() イームズチェルチェアー |
|||||||||||||||||||||||
![]() クランブルック:チャイニーズドッグ(谷戸孝 氏:撮影) |
||||||||||||||||||||||||
参考映像:
「901」スタジオ訪問ビデオ House-Charles & Ray Eames Design Q & A with Charles Easmes |
||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||
2014年2月28日(金)
● 井上昇のいすの話-45 Part 3 |
||||||||||||||||||||||||
藤沢・江の島2年半のアメリカ滞在を終えて1982年の1月末に日本に帰国。気持ちの上では無事、留学の目的を果たし、多くを学んだ、経験したという気持ちはあるものの現実には、まえに勤務していた会社は辞めているので復帰する職場もありません。無職なので時間だけはたっぷりあり、全く収入なしの0からの再スタートです。いえいえそうではありません。0からではなく留学で多額の借金がありますから、0ではなく多額の借金を抱えての再スタート。それも家族を抱えて。その当時でも会社を辞めて独立するには最低でも750万円程の準備金が必要といわれていました。その理由は当面の立ち上がりは無収入なので、1年分の生活費と事務所費や交通費、電話代等の諸経費あわせてそのぐらいの経費が独立には最低必要との試算です。私の場合、住む場所としては留学前に住んでいた藤沢の2DKアパートを帰国した時にも住めるような状態でキープしていました。藤沢は江の島の海があり、暖かく、空気もきれいで富士山がよく見え大好きな所です。しかしです。その当時デザイン業という仕事を独立してはじめるとしたらデザインでは先端的な流行の発信地、東京、それも、青山、原宿がある港区、銀座がある中央区、赤坂に近い千代田区あたりで開業しないと無理とのイメージがありました。江の島がある大好きな藤沢に戻ってデザイン事務所、それも自宅で開業できるか!今と違ってパソコンのない時代です。デザインの仕事は流行の発信地「東京」にあり、郊外の「藤沢」にはありません。藤沢に戻って生活し、すぐに仕事がとれないとしたら大好きな藤沢での生活も成り立たず、結果的に事業も継続出来ません。まして借金こそあれ事業資金も当座の資金も全くありません。親も心配しています。帰国して最初の大きな壁、試練です。 |
|
|||||||||||||||||||||||
![]() ![]() 江の島と富士山(左側)、鵠沼海岸から見た江の島(右側) |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() 七里ケ浜海岸(左側)、江の島から見える日没前の富士山と箱根(右側) |
||||||||||||||||||||||||
南麻布と南青山帰国後のとりあえずの結論は妻の実家のある、東京港区、南麻布にとりあえず仮住まいさせていただき、東京に住んで、東京で仕事をさがし、軌道に乗ったら外に出るということで義父、母の了解を得、2階に下宿する事にしました。それはとりあえず「家族の食事の面倒をみてもらえる事」それが一番の理由です。人間、どんな貧乏でも、3度3度、食事しない訳にはいきません。正直言って私にはあまり居心地はよくありませんが、親と一緒ならお金はなくても3度の食事だけはとりあえず心配いりません。義父母の家は古い建物ながら2階建てで麻布という土地柄、大使館も近くに多く、その大使館の下級職員の下宿屋として部屋貸ししていた経緯もあり部屋があります。その下宿の2階を借りるという事で港区でもある南麻布に住み、ここをデザイン事務所とし仕事をスタートすることにしました。この環境は正直言ってデザイン事務所をたちあげることにおいては大変、恵まれた事ではありましたが、しかし、仕事がなかなか軌道に乗らず、この狭い2階の自宅兼事務所で、結果的に帰国から7年間、部屋に籠って仕事をすることになります。その後、収入が安定してから、税金対策上の理由から事務所を株式会社の法人にし、住まいはひき続きそのままに、事務所は同じ港区の南青山5丁目の15坪のマンションを借り、20年間、青山にて活動する事になります。結果的に20年で合計 約7,000万円もの家賃を支払うことになりますが、東京でデザイン業をするということはそれだけのリスクと同時にメリットもあったわけです。「椅子塾」をすることが可能になったのもそれなくして不可能だったでしょう。 海外に留学して、働いて帰国して日本で就職ではなくフリーで仕事を始めることは難しく結果的に帰国を躊躇するというケースは良くあることです。私の場合はアメリカで就職できなかったことで帰国して仕事をスタートせざるをえず、はじめはそれなりに苦労しましたが、後で考えるとそれがとても良かったのです。私の経験としては思い切って決断し実行すれば何とかなるものです何事も。 |
![]() フィンランド大使館(南麻布)
|
|||||||||||||||||||||||
自由と独立自分がしたい事をするとしたら、どうでも良いプライドは捨てる。これは会社やめてフリーになったときからの信念です。しかし本当に大切な人間としてのプライドは絶対まもる。これも信念です。アメリカの留学で学んだ事、それは精神の「独立」「自由」です。その精神の「独立」「自由」を護る為にも経済的な「独立」「自由」が絶対必要なのです。椅子のデザインはその精神の「独立」「自由」とそれを支える経済的な「独立」「自由」に一番、私には適し、向いているのです。ライフワークたる由縁です。併しこの全く無収入な再スタートの時期ほど人間はなぜ毎日、3度3度食事をしなければ生きて行けないんだろう。霞を食って生きられないんだろうと恨んだ時代でした。帰国して仕事のめど、収入を得る為の方策を帰国前から全く考えていなかった訳ではありません。会社を辞職する時、11年間勤めていた創業者の社長もそのあたりを心配してくれて、帰国したら挨拶に来なさいとの言葉を頂いていましたし、留学中も折に触れて手紙をだし、アメリカでの会社のアメリカのコンサルタントの人も近くにいて、その人をとうしてもアメリカ滞在中も、勤めていた会社の重役や社員の方々とも交流はつずいていました。帰国後、いわれたとうり創業社長に挨拶に行きました。社長は挨拶して帰る時、私に仕事出すように指示しておくから挨拶に行きなさいと指示されます。いったん辞めた社員にたいしてのご配慮に感謝しつつ、指示されたセクションに挨拶に行きましたが、仕事をする詰めのルールで折り合いがつかず仕事に至りません。そんな交渉を続けるうちに時間はどんどん過ぎて行きます。数ヶ月、経っても仕事のめど、収入のめどは立たず、周りの知合いも見かねて会社に再就職したらと色々心配してくれます。大手住宅メーカーの会社を紹介して下さる恩人もいましたが全部お断りしました。 |
![]() プラダビル(南青山)
|
|||||||||||||||||||||||
フリーランスの自由その理由は2つありました。1つ目は自分にとっての会社勤めの限界を感じ、フリーランスになるため会社を辞めた事。そのフリーランスになる準備のために多くのリスクを払ってアメリカに留学し、準備した事。ここで会社に勤めたのでは何のために家具会社を辞めたか全く意味がない事。2つ目はこちらが本音です。アメリカ留学での多額の借金を返すにはもし会社勤めに戻ったら絶対返せないこと。 |
![]() ハーマンミラー・ジャパン(丸の内) |
|||||||||||||||||||||||
フリーランスなら返せること。このときは全くの仕事なし、収入なしの時でしたが私の気持ちの上ではこの「確信」がありました。そしてこれは大正解でした。この無職の時点の5年後から仕事も、収入も上向き10年かけてアメリカ留学で負った多額の借金は、他に家賃を払いつつ完済。選択は間違っていませんでした。 今までもそうですが「万事休す」という事態は望みませんが人それぞれに人生で度々起る事は避けられないのではないでしょうか。フリーランスの仕事をしていてその後もそのような「万事休す」に陥った事、度々ありますがそのようなときは本当に苦しいのですが後で振り返ってみると、その「万事休す」が後の「大きな発展の転機」になっている事が1度ならず何度もありました。私は20代のころから行動するにあたって「万事益となる」という信念で動いています。マイナスは何もないと!その信念がなかったら無茶な留学も踏み出さなかったでしょう。留学前、会社辞職してから挨拶にいった大学の恩師、故豊口克平先生からも「まじめに働いたら必ず食べていける」から頑張りなさいという励ましもささえになっていました。 |
||||||||||||||||||||||||
Gマーク部門賞 そんな無職のわびしい苦しい時期、こんな事がありました。まえに勤めていた会社での最後の椅子の作品、コンピューター用、事務用椅子「27チェアー」が、その年のGマーク、グッドデザイン賞、家具部門での最高賞、部門賞に選ばれたことです。その展示された会場に行き展示を見ました。その時の写真がここに掲載した写真です。椅子のデザイナーとして一番喜ぶべき時に私は会社を辞めています。そして共に喜んでくれる同僚、仲間もいません。そして無職、無収入。その時の何とも言えない気持ちお解りいただけるでしょうか。この「27チェアー」はその後、以前に勤めていた会社の看板商品になり、そして予測では150万脚、以上売れた大ヒット商品になります。テレビのCMにも登場します。 |
Gマークの展示場にて |
|||||||||||||||||||||||
そこで会社を辞める時、創業社長に挨拶に行った時お願いし、約束していただいていた事「27チェア−を意匠登録をする時、創作者の名前の欄に「井上昇」の名前を必ず入れて下さい」とのことを思い出し、虎ノ門の特許庁にいき「意匠公報」を確認した所、ありました。私の名前が「27チェアー」の意匠登録の登録証の中の創作者欄に「井上昇」とはっきりと。創業社長は私の願いを聞き入れてくれ、会社を辞めた後でも創作者の欄に約束道理、私の名前を記載してくれていて「約束を実行」してくれていた。このときの喜びは闇夜の中のかすかな灯りにもにて熱い想いで一杯になりました。「有り難うございます社長。社長の御恩は一生忘れません」。このこと「創作者・井上昇」の意匠公報での記載はその後、私にとり「椅子のデザイナー」としての大きな大きなスタートのきっかけ、信用、後ろ盾になりました。日本中のオフィス業界の開発に携わっている開発部門の人々の中で「創作者・井上昇」の名前は「27チェアー」のGマークの部門賞選定と、商品としても大ヒットした事により良く知られることになったからです。このあとしばらくして事務用椅子の仕事を紹介してくれる私にとっての最大の「恩人」がコンタクトをとってきます。仕事をやめてから留学の間の2年半、帰国してから半年、合わせて3年間つづいた無職、無収入の時代の終わりです。 | ![]() 27チェアーの人間工学パンフ |
|||||||||||||||||||||||
![]() ![]() 「27チェアー」カタログ(左側)、27チェアー、ローバックとハイバック(右側) |
||||||||||||||||||||||||
2014年2月28日 井上 昇 | ||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||
2014年3月31日(月)
● 井上昇のいすの話-46 Part 3 |
||||||||||||||||||||||||
最初の仕事ある日、日本の椅子張りの販売会社の課長が私に会いたいとコンタクトをとって来ます。面識のない方です。とくべつ断る理由もなく時間もあるので会う事に。お会いしてみるとこのような提案をいただきます。日本のオフィス家具分野にある大手文具会社が参入しています。その会社に家具、それも特に事務用椅子を納めている協力会社の工場が長野県にあつてそこで製造された椅子はほとんどその大手文具会社が自社の椅子として販売しています。その長野の協力会社の椅子のデザインをする気持ちはありませんか。もし、その気持ちがありましたら、ゆっくり考えていただいて結構ですからご連絡下さい。私が紹介致します。という提案です。 長野県は小さい時住んでいた事もあるし、お袋の故郷。親しい叔父、叔母も住んでいる。父方の九州と並んで私のもう1つのルーツの土地。O社との仕事の話は半年たってもいっこうに進まないし、今後も期待できそうもない。そんななか、コンピューター用の椅子という自分の一番やりたい専門の仕事が来た。しかし、そこの会社の納入会社は以前の会社のライバルメーカー。辞職してからすでに3年は経っているので慣例上、心配なし。留学に際しても費用は自費なので問題なし。筋をとうして帰国後、O社に最初にコンタクトしたのに半年以上進展なし。家族は口をあけて餌を待っている。もうこれ以上、周りに迷惑をかけられないしそんな余裕が自分の選択幅の中にあるのか?ノー!。選択の余地はあまりありません。 |
|
|||||||||||||||||||||||
![]() ![]() ハーマンミラー社・アーゴンチェアー(左側) アーゴンチェアーのデザイナー:故ビル・スタンプ(右側) |
![]() ハーマンミラー アーゴンチェアーオフィス |
|||||||||||||||||||||||
結論として、その課長の提案をうけて紹介してもらう事にし、長野の工場と製品を見せていただくと、製作している椅子は海外の椅子のアレンジ品であったり、流行遅れの製品ばかり。事務用椅子の分野ではその当時、ハーマンミラーのアーゴンチェアーの影響が日本にも浸透して来ていて、人間工学の椅子、コンピューター作業に適している事務用椅子が主流になる転換の時期で、長野のそこで生産されている椅子はライバルメーカにくらべるまでもなく製品的に全く遅れているのは一目瞭然でした。
結果的にそれから3年間、長野の協力工場に通い、2シリーズの人間工学に基ずくコンピューター事務用椅子とロビーチェアー等のデザインの仕事をすることになります。このコンピューター事務用椅子はその後その協力工場と納入販売会社の看板商品になります。その納入販売会社はオフィス業界でOAチェアーの分野でも地盤を固め業界での地位を確立する転機の商品になったと私は思います。 |
![]() 人間工学の研究と実験 |
|||||||||||||||||||||||
(それは実績が証明します)。しかし、このOAの椅子プロジェクトはその長野の協力会社のデザインとの契約の仕事で納入販売会社との直接の金銭関係はありませんでした。そういうこともあってデザイン料は仕事の内容に比較して安く(個人的見解)、それほど頂けませんでしたが、独立して最初の大きな実績になる仕事である事、安いにしても無職の生活からとりあえず抜け出せた事の意味は大きくありました。「無いときのお金はあるときのお金の10倍の価値がある」。この意味を身にしみた事でした。その意味はまさに「家族の命をつなぐお金」です。この最初のお仕事は、日本でのよくあるプロジェクト契約で仕事が終わればそれで終わり。仕事が終わった後でも、デザインした生産台数により、数パーセントの収入が期待できる(椅子の場合、海外では普通)ロイヤリティー契約を結べなかった(最初交渉したが、日本の常として問題外)ことで仕事が終わったとたん、またまた、無収入になり生活に困る事になります。 | ![]() 最初のOAチェアー、高級タイプ |
|||||||||||||||||||||||
これが通常の日本のデザインの仕事です。そこで次から次と仕事を戴ければ問題ないのですが私の場合は悲しいかな、実績的に椅子しかデザインできないので他のプロダクトデザイン事務所の様に他の工業デザインの仕事は来ないのです。独立した時、私がもし家電メーカーのデザインキャリアをもっていたらもっと仕事を見つけるのはたやすかったでしょう。ただ椅子一本に絞り込んだこと、裏返せば椅子しかほとんどキャリアがなかったこと(スペースデザインの仕事の実績はあったものの、椅子のデザインと両立は難しかった)、これは私の特徴です。今振り返ってみるとこの「椅子のみ」の狭さが後では悪くなかったのですが独立したてのときはそんな状況だったのです。 | ![]() 2番目のOAチェアー、普及タイプ |
|||||||||||||||||||||||
BIO-TECH CHAIR前の会社を辞めるとき「椅子だけでやっていくといったら先輩が、日本では絶対無理。保証する。」という言葉が現実の意味になっています。一般的な話し、会社にとって新製品が出来れば販売にはいります。販売に入ってもその製品が売れるのか売れないのかのタイムラグの時間が2〜3年かかります。木製と違って事務用椅子には型代等の投資が大きいのでそれを回収するのに時間がかかり、ひとつのプロジェクトが終わったからといってすぐ次の新製品をという訳には簡単にいかない事、さらに売れなかったら次の仕事はない訳です。ですからどちらにしてもその後の仕事はない訳です。特に私の場合、オフィス家具会社が一番、力を入れ、投資し、看板商品になる椅子のデザインで呼ばれるわけですからなおさらです。 |
単品カタログ |
|||||||||||||||||||||||
![]() ![]() バイオテックチェアーPRカレンダー表面(左側)、裏面(右側)。エクゼクティブチェアーから普及型まで全シリーズ |
![]() 名古屋学芸大学研究室で。 今でも日本中でバイオテックチェアー初期型は使われている。 |
|||||||||||||||||||||||
実際にその後2年以上もお声がかかりませんでした。納入会社にも面識が出来たのでその後問い合わせたりしましたがいつも決まって「考えています」のご返事。あとで判ったのですが。関東と違って関西の「考えています」は関東の「考えていません」と同じ意味だということを知ります。幸いな事というか残念な事というか、長野の協力会社で私がデザインした事務用椅子は、日本経済のバブル期と重なって大ヒットします。
後に担当者から聞いた話では、私がデザインした事務用椅子は生産総数300万台、需要期には月に4万台も出荷し、販売の営業マンが工場に確保にきて取り合いになったという話まででるほどの大ヒット商品、ドル箱商品になりました。クライアントが喜んでいる反面、こちらは仕事なし。不安定な状態に戻ります。これがフリーランスの現実、状況です。でもフリーランスが仕事をはじめる時、先輩からもう一つこんな事とアドバイスもうけています。「最初の仕事はただ働き」。これが新人が世に出るときの悲しい厳しい現実なのです。しかし、ここでの椅子が大ヒットしたことがまたまた大きな意味をもってきます。でもこの長野の仕事が終わったとき、後に社長になる開発の担当者からこんなこといわれました。「ここでデザインした椅子以上の良い椅子あなたには今後もう出来ないでしょう」この一言は私の心にグサッと突き刺さりました。褒め言葉でもあり、将来に対する否定です。この一言が私の次の「決意」を生みました。それではそれ以上のすばらしい椅子をデザインしましょう。やって証明しましょう。 |
||||||||||||||||||||||||
海外家具ツアーに参加後に、なぜ私をその長野の協力工場に紹介してくれたのですかと椅子張り販売会社の営業課長に訪ねた所、こういう答えが返ってきました。デザイナーを紹介して、その会社で椅子が生産されれば、私の会社の布地も使っていただける(事務用椅子の場合、椅子製品がヒットすれば、何万メーター、何十万メーターにもなり、数億円の売り上げになる)。私の会社の椅子張り地の販売売上を上げる為に井上さんを紹介しただけです。これは営業の仕事の一環です。特別な事はしていません・・・と。 しかし、椅子のフリーランスは厳しいと嘆いてばかりいられません。私はこんなアクションを起こしました。帰国してから半年は無職でしたが、少ないながら収入を得た中のなけなしのお金をはたいて、翌年、6月、アメリカのシカゴで開催される、全米家具見本市「NEOCON」の業界誌主催の家具ツアーに参加します。帰国後の最悪の一年を除いて2年目から欠かさず20年間毎年シカゴに出かけ、ヨーロッパに出かけました。いまおもえばこの最初の苦しいときの家具ツアーの参加が次のステップにつながりました。 どういう事かと言いますと、この業界誌主催の家具ツアーには日本中の特にオフィス関係の会社の開発部の担当者が会社の経費でツアーに参加しています。それも実戦部隊、開発の発注の権限もしくは強い影響力を持っている実務担当者がです。そして1週間ほどのツアーは食事も「同じ釜の飯」を共にする訳ですからとても親しくなります。しかし、彼らのみんなが英語が出来る訳ではありません。まして、アメリカに出張に来るのはほとんど初めての人が多く、治安の悪い夜のダウンタウンの街に出て、夕食を1人で出かけるほどの強者はいません。ということで結果的にアメリカでの生活体験と治安の事も知っている私が食事に出るというと、家具ツアーの仲間が一緒につれてってということになります。場合によっては観光のアドバイス、通訳もかねて一緒にショッピングにつきあわせられることになります。なかには、家具の開発を助けてくれるデザイナーを捜している人もいて仕事の話等も結果として舞い込んできます。 |
![]() シカゴ・ネオコン会場・マーチャンダイズマート
|
|||||||||||||||||||||||
徳島のホーム椅子の仕事最初の家具ツアーで徳島の大手の藤家具メーカー(現在は解散)の開発部長と親しくなり、ホーム用パーソナルソファの仕事等頂きました。開発の他にデザイン顧問契約等結び、数年間は月々の生活費ほどの収入を頂いた事もありました。早速のツアー参加費用の回収、プラス、新しい仕事の獲得です。今思えば、1980年代は日本の一番景気のいいときでした。その後、海外には毎年、アメリカだけでなくヨーロッパにも良く行きましたが、仕事が欲しいときは家具ツアーに加わり、仕事が手一杯の時は単独で出かけ、現地で会うだけという事にしました。自分のお金で参加して通訳やらされたのでは割が合わないからです。 そのうち、業界紙から海外の家具見本市の内容を記事にして寄稿してほしいとの依頼が来ます。そして、業界のなかで私の椅子のデザイナーとしての名前と仕事の実績が知られるようになります。フリーランスデザイナーにとって名前が知られる事は大きな意味があります。クライアントは、自社製品で儲けさしてくれるデザイナーと、有名なデザイナーが大好きなのです。メディア戦略はフリーランスデザイナーにとって大きな仕事の一部です。 |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() オフィス家具業界誌(左側)、海外視察レポート(右側) |
||||||||||||||||||||||||
2014年3月31日 井上 昇 | ||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||
2014年4月30日(水)
● 井上昇のいすの話-47 Part 3 |
||||||||||||||||||||||||
フリーランスという仕事長野の仕事も一段落してまた静かなしかし経済的には厳しい不安定な生活にもどります。海外家具ツアー参加でコンタクトが出来た徳島の藤家具メーカーの仕事と世田谷・経堂にある女子校の専攻科の非常勤で何とかやりくりしながらの日々。ただこの時期、あまり先が見えない生活が続いていても、帰国時と全く違う事は、フリーランスになって1番目の目標の念願の椅子の実績が出来た事。会社内でのキャリアでなく、独立してからのキャリア、実績。これはともあれ世間からフリーの独立した椅子のデザイナーとして認められた事を意味します。フリーランスという仕事は仕事がくれば働き、収入があり、仕事がこなければ失業中で無収入というのが現実で、その繰り返しの連続です。ですから非常に不安定。これでは生活は安定しません。 椅子のデザインの良い所は、日本では難しいながら海外では「ロイヤリティー契約」が結べ、生産実績に連動して家具会社側から成功報酬として支払いを受けるというのが一般的。これは2つの意味があってどんなに有名なデザイナーでも実績が上がらなければ収入はなく、新人デザイナーでも実績を上げればそのバックも大きいという事で、メーカーは多くの外部デザイナーから「知恵」と「協力」を集めることができ、業績を上げることができるというメリットがあります。 |
|
|||||||||||||||||||||||
デザイナーにとってはクライアントにとって売れるもの、業績が上がるものをデザインしようと真剣になります。この関係がとても新製品開発には意味をもって来るのですが、商品開発で「アイデアはタダ」、「物まねで済ます」という方針でそれなりに実績?ある、慣習のある会社にとっては「ロイヤリティー契約」などとんでもないということになります。
こんな事もあります。海外のデザイナーには「ロイヤリティー契約」しますが日本人デザイナーはしない。 またこんなケースもあります。売れにくいプロジェクト、商品アイテムはぜひ「ロイヤリティー契約」しましょう。(これはデザイナーのただ働きを意味する。)売れる商品は絶対「ロイヤリティー契約」はしない。一部の有名デザイナーを除いてこれが今でも現実なのではないでしょうか。 |
![]() 家の近くの有栖川宮記念公園ー 都立中央図書館もあって散歩コース |
|||||||||||||||||||||||
![]() ![]() K社のバイオテックチェアー。300万台も売れたベストセラー商品。ロイヤリティーではないので、仕事が終われば失業状態。 |
||||||||||||||||||||||||
アメリカでの反応そんな間にもシカゴのネオコンに出かけます。そして私がデザインしたK社の単品カタログをアメリカの友人・先輩に見せると、凄いね、おめでとう、「Great」やったね!との反応が返ってきます。その背景にはアメリカと同じくあんたは「ロイヤリティー契約」で報酬をいっぱいもらってんだね、うらやましいとの羨望の意味があります。しかしカタログに創作者であるデザイナーの名前がないと、どうしてと聞いてきます。いや日本ではカタログに名前は載らないし「ロイヤリティー契約」はとても難しいと説明するととたんに、えー、日本はそんな国なんだ、デザイナーを大切にしない国なんだ、物まねやっているから名前も出さないんだな、ととたんに態度が変わってきます。こんな事言ってくれるのは親しい仲間だからです。仲間でなかったら最初から無視するでしょう。尊敬するクランブルックの大先輩で椅子のデザイナー、アメリカでの人間工学の権威で師匠でもある(勝手にそう決めている)ニールス・ディフェリエント氏にもK社の単品カタログを見せましたがこうアドバイスされます。まえにも書きましたが、アメリカも以前は「ロイヤリティー契約」など出来なかった。それをデザイナーがまとまって苦労して今の「ロイヤリティー契約」を結べる様にしたんだ。日本で出来ないなら出来る様にしたら良いではないか。あなたがそれをやりなさいと!今から約30年前の話です。このアドバイスは胸に来ました。響きました。そしてこれは日本で「椅子のデザインビジネス」を今後も続けるとしたらなんとしても欧米と同じ「ロイヤリティー契約」を日本でもやらざるをえないことをこのアメリカ、シカゴで強く感じました。口で嘆いても始まらない。日本がもし世界の一流国だとするなら契約も欧米と同じ一流国の仕方でないととても恥ずかしい。それでないと日本は海外からは馬鹿にこそされ、とても尊敬されない。アメリカに留学した、学んだという事はこの契約のことも含むのではないか!これは、自分の仕事だ。「ロイヤリティー契約」できる仕事をしよう。でも日本で果して出来るのか。壁がとても厚そう。仕事も無いしとても不安。しかし、自分がやらなくて誰がやる。誰かがやらなくては日本は変わらない。そんな思いで日本に出張から帰国します。 |
I社の最初の椅子のメカパテント
|
|||||||||||||||||||||||
![]() 東京都庁・第2庁舎に7,036脚を納入 |
![]() 東京都庁・約13,000人が働いている |
|||||||||||||||||||||||
「ロイヤリティー契約」の仕事しばらくしてまた、同じ業界の I社の開発企画担当の方からお会いしたいとコンタクトがあります。お会いしてみると私はその人は同じ業界ながら初めて会う方です。しかし、その方はこういいます。井上さんが前に勤めていた O社にいたときから私は知っていますよ。井上さんの仕事を見ていました。前にも書きましたが O社でデザインした椅子の「意匠登録の創作者」の欄に私の名前が載っていますので、同じ業界の開発企画担当者は当然リサーチしています。これは業務の一環です。 「私の会社の椅子の開発を手伝っていただけませんか」と担当直入にいいます。 直接でないにしても開発をお手伝いしたK社の OAチェアーがそのころ爆発的に売れています。その結果そのあおりを一番受けた、受けていたのが I社だったのです。同業といえどもそれぞれ得意分野の製品があって、椅子なら O社、デスクならI社、そこへ老舗の文具メーカー K社が割り込んで来て製品の質も追い上げてきて、O社も危機感が高まっていた背景が今と違いその時は強くありました。そしてその時は日本経済の絶好調の時で業界全体での売り上げも絶好調。開発資金も潤沢に出せる環境がある時期でした。そのときは K社、及び、その協力会社からは仕事も全く無く、その後もかならず仕事がくるという雰囲気もほとんどない時期でした。ですから私にとってはI社からのオファーは願ってもない仕事環境の時でした。 |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() サイラックスチェアーのパブリシティー、モデル:グレース・ヒロコ |
||||||||||||||||||||||||
![]() サイラックスチェアーのフルラインナップ:エクゼクティブからセクレタリーまで |
||||||||||||||||||||||||
そしてシカゴから帰ってデザイン契約問題に取り組む決断をしたばかりの時でしたから、I社の開発企画担当の方に、もしこのようなデザイン契約を結べるのでしたら I社とお仕事しましょう、それが出来なければお手伝い出来ませんとお伝えしました。
それは製品カタログと生産された椅子に 「Design by Noboru Inoue」の名前を入れる事、デザイン料は「ロイヤリティー契約」で結ぶ事、この2つのみ。もし開発した椅子が売れなかったら一銭も頂きません。アメリカでニールス・ディフェリエント氏に日本であなたがやれと言われた事です。 I社はすでに海外にいるデザイナーとは「ロイヤリティー契約」で椅子のヒット商品をだしていて「ロイヤリティー契約」は経験済み。その海外デザイナーには多額のロイヤリティ費用を払っていました。しかし「日本在住の日本人デザイナー」は初めて。しかし、私の見解ではその時の I社は私の契約条件を受け入れてもライバル他社に対抗する事務用椅子を早期に開発する必要に強く迫られていた背景と、他社より「ロイヤリティー契約」は経験済みということもあって受け入れて頂だける事になりました。 |
||||||||||||||||||||||||
意匠デザインとメカニカル特許しかし、プロジェクトを進めてくうち椅子のメカニカル特許まで考案しないとプロジェクトが進まない事情がでてきて、結果的に椅子のメカニカル特許は私が考案し、共同で申請し権利化しました。デザイン以外の難しい特許開発作業も仕事に入って来たのはそれまでのデザインだけの開発と全く違います。デザイン(意匠登録)とメカニカル機構開発(特許)の両方の仕事をした事での結果として「ロイヤリティー契約」を結べたのでした。製品開発では意匠デザインよりも特許のほうがはるかに重要です。 「ロイヤリティー契約」を認めていただいたお礼に私が考案した特許を「共同申請」した事があとで甘かった事を知る事になりますが、それ以上に日本の大手の家具メーカーに「ロイヤリティー契約」を初めて認めて頂けた事はアメリカで日本もそういう国であるといえる証明になりニールス・ディフェリエント氏との約束が果たせたことが何より嬉しい事でした。結果的にその後12年にわたり3シリーズのOA事務用椅子の開発をお手伝いさせて頂きましたが3シリーズとももちろん「ロイヤリティー契約」。それに使用したメカニカル特許も共同申請。工業高校、機械科で学んだ事がおおいに役立ちました。 |
![]() サクラルチェアーのメカパテント
|
|||||||||||||||||||||||
外部デザイナーの活用多分私の判断では日本在住の椅子のデザイナーで大手の家具メーカーの事務用椅子で看板商品になる売り上げの大きな事務用椅子のプロジェクトで欧米と同じレベルの「ロイヤリティー契約」を結べたのは私が「最初で最後」でなかったかと推測します。そしてこの私の推測が「間違いだった」事を大いに期待します。日本の事務用椅子開発はハーマンミラーのアーロンチェアーに代表されるメッシュ中心の椅子が主流になっていますが、その開発費の大きさで日本国内だけの販売ではアーロンに対抗する椅子の開発はむずかしいこと、サイズ的に日本仕様の事務用椅子は人間工学的に世界基準になりえないこと、その後、日本の経済が落ち込み業界的に余裕がなくなった事、事務用の世界でも通販、ネット販売が参入し、生産、販売の50%以上が海外(主に中国、東南アジア)からの輸入になり国産化率が下がった事情もあり、100%国産の椅子という時代ではなくなりました。その意味で、私が関わった事務用の椅子の開発の時はいま思うと草創期、時代の転換期だったこともあり良い時を過ごしたという想いがあります。しかし、本当に独創的な製品開発、売り上げを望むなら今でも「ロイヤリティー契約」という契約をとうして外部の知恵を取り入れたほうが経営には結果的にはプラスになると私はいまでも思います。会社に取って良いことは「ロイヤリティー契約」は売り上げが上がらなかったら支払いをしなくていいからです。I社と平行して「天童木工」の仕事もさせて頂きましたが天童木工は日本で「ロイヤリティー契約」でデザイナーと契約する有名な数少ない日本の家具会社です。その後の私は「ロイヤリティー契約」以外の仕事は椅子に関してできなくなりました。 |
![]() サクラルチェアーの単品カタログ
|
|||||||||||||||||||||||
![]() ![]() サクラルチェアーのラインナップ「Design by Noboru Inoue」のシール付(左側)、その納入写真(右側) |
||||||||||||||||||||||||
I社と「ロイヤリティー契約」の契約して頂いた事で仕事がこないからと「ロイヤリティー契約」以外の椅子のデザインの仕事をする事はI社に対して「道義」に反すると考えるだけでなく私のアメリカ留学以来の決意に反するからです。「ロイヤリティー契約」で仕事が出来ないのなら、どんな事情にせよ椅子の仕事はわたしにとってやる意味は全くないからです。椅子のデザインは私にとって「天職」であり「ライフワーク」であって趣味でも、暇つぶしでもないからです。そして実力の低下もあるのでしょうがオフィスの椅子の仕事はその後、全く来なくなりました。しかし「ロイヤリティー契約」を結べたこと、I社のOAチェア−がヒット商品になったことで実際的には意匠権がある15年程、売り上げに応じての報酬をいただき経営が安定したことはいうまでもありません。 オフィスの椅子の仕事から離れて8年目、「ロイヤリティー契約」の仕事よりもっと素晴らしい椅子の仕事がありました。 |
![]() 第3作:アペーラチェアー |
|||||||||||||||||||||||
![]() ![]() 天童木工:マネジメントチェアー(左側)とエクゼクティブチェアー(右側の写真) |
||||||||||||||||||||||||
2014年4月30日 井上 昇 | ||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||
2014年6月30日(月)
● 井上昇のいすの話-48 Part 4 |
||||||||||||||||||||||||
長大作さんを悼む「いすの話:5月号」忙しさに追われお休みしてしまいました。その忙しさの中の1つに私がデザインし、生産、販売している「腰の椅子・Awaza」の生産を委託している山形の工場「朝日相扶製作所」の工場見学会がありました。全国で販売して頂いている販売店様の要望により工場見学を実施しました。実質的にはじめてのイベントになるのでその連絡、バスの手配、事前の準備、その後の仕事等々。結果的にはとても喜んでいただけて大成功でしたが、今回の工場見学の反省点の1つとして見落していたのが山形の朝日町にある工場は西日本からとても遠いということでした。東京からでも車で5時間はかかり、山形駅から車で45分。でもこの工場はデンマークからの依頼でデンマーク政府が寄贈したニューヨークにある国連のフィンユールデザインの議場椅子を数百脚生産し納めた工場としても知られ、80社の生産委託を受けて椅子、テーブル、ソファ他を作っていて見応え十分。その工場で私の会社の椅子も作って頂いているのです。とても幸せです。 |
|
|||||||||||||||||||||||
![]() ![]() 「腰の椅子・Awaza LD」(左側の写真) Awazaの肘パーツ |
![]() コンピューターで製作 |
|||||||||||||||||||||||
前置きはそのぐらいにして5月に書く予定でした長大作さんのことを偲んで書きます。産経ニュースに、
「長大作氏(ちょう・だいさく=家具デザイナー)5月1日、老衰の為死去、92歳。葬儀・告別式は近親者で済ませた。旧満州生まれ。昭和22年に坂倉準三建築研究所に入社し、藤山愛一郎邸や八代目松本幸四郎邸などの設計を担当。独立後も和洋の文化を融合させた家具のデザインを数多く手がけた。代表作に“低座椅子(いす)”など」。 長大作さんは、先生と呼ばれることが大嫌いで「チョウさんで良いから、チョウさんって呼んでよ。」が口癖でした。そこで私はいつもチョウさん、チョウさんと親しみを込めて呼ばして頂いていましたのでここでもチョウさんと呼びます。チョウさんは椅子もデザインする日本では珍しい、希有な建築家でした。ですから私はチョウさんとは以前から椅子を通して接点がありました。特に密度が深くなったのは1999年、今から16年前に椅子塾をスタートしてからと言えるでしょう。 |
長大作さん |
|||||||||||||||||||||||
![]() ![]() 低座椅子(左側)、中座椅子(右側)、デザイン:長大作 |
![]() 青山「100%デザイン」会場にて チョウさんと |
|||||||||||||||||||||||
チョウさんとの出会い、1971年チョウさんとの最初の出会いは竹橋にある毎日新聞社。私は毎日工業デザインコンペティションのB部門で特選一席の賞に入賞し、その表彰式が行われる毎日新聞社での表彰式典に参加した時でした。私が28才の時。2012年7月号、いすの話-28 Part2でこの時のこと書きましたので引用します。 「「毎日工業デザインコンクール」授賞式が皇居横の毎日新聞本社であり、招待状がきて出席。授賞式の席に着席すると我々一般部門のA部門、B部門の受賞者の他に、現役で活躍し、功績を認めて表彰する「毎日デザイン賞」という表彰式も同時にあり、名のあるデザイン界の重鎮が座っています。雰囲気としてはそちらの方が重みが大きく、我々コンクール受賞者はその後の席につき、デザイン界の重鎮の「毎日デザイン賞」の表彰を観た後、表彰を受けました。ということで、私の前に座っていた人は椅子のデザインで有名な、長大作、水之江忠臣、松村勝男の御三家とそれぞれの奥さん。その他にテキスタイルの大御所、粟辻博と奥さん。私はデザイナーの駆け出し、それも自分の望んでいるデザインのポジションにほど遠いところにいた時でしたからそのスターの後ろ姿は、まばゆいばかりの光景です。今でもそのシーンははっきり覚えています。」 この時の毎日産業デザイン準賞受賞(1971年)は「長大作、水之江忠臣、松村勝男ファニチャーコレクション展」の評価で3人とも受賞したのでした。この受賞のときの年齢は、 長大作(1921?2014)。50才。 松村勝男(1923‐1991)48才。 |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() ![]() 松村勝男さん(左側)と和椅子(中央)および、ベストセラーの天童ダイニングチェアー(右側) |
||||||||||||||||||||||||
水之江忠臣(1921−1977)50才。 1942年(21才)前川國男(1905-1986)坂倉建築設計事務所入社。1954年(33才)神奈川県立図書館の家具設計担当。1964年、43才の時、 独立。 |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() ![]() 水之江忠臣さん(左側)と食堂椅子(中央)および、天童でも大ベストセラーの椅子(右側) |
||||||||||||||||||||||||
3人の共通点はそれぞれ当時の著名な建築事務所に就職し、その後、独立していることです。チョウさんと他の2人との違いは松村、水之江の両氏は所属事務所の所長がまだ元気な時に独立し、チョウさんだけ受賞後1年、所長が亡くなってから3年後の51才で独立。独立するのが遅かったことです。坂倉事務所の居心地がとても良かったのでしょう。
でもこの独立が遅かったこと、師匠ともいうべき所長が亡くなってから独立したことで他のお二人とは随分と違った状況に遭遇します。それは3人とも有名建築事務所の所員として活躍しますが、松村さんは吉村順三から、水之江さんは前川國男、それぞれの御大から独立時、所員時代にデザインした椅子のデザイン(主に天童木工)の権利を譲渡されています。これは師と弟子の麗しい関係といえるでしょう。ただチョウさんは師の亡くなった後、独立したことでチョウさんの代表作「低座椅子」とその関連の椅子の権利はチョウさんには譲渡されていません。デザイナーは坂倉準三建築研究所(担当:長大作)となっているのはこの為です。3人とも建築事務所の所員でありましたから法的にはその建築事務所の権利ということになるでしょう。しかし松村さん、水之江さんは独立時、師から権利を譲渡され、その後もロイヤリティー収入が続き、亡くなった後も遺族に引き続き支払われています。そのことチョウさんはとても残念がっていましたがそれも今は過去の思い出です。 |
||||||||||||||||||||||||
「椅子塾」と「椅子塾展」と「椅子塾セミナー」1999年、椅子塾を始めて5年目、5周年の記念展「100Chairs」展を開催しました。そのとき4日連続のセミナーを企画、実行しました。
|
![]() 青山・椅子塾
|
|||||||||||||||||||||||
それぞれの分野の重鎮ばかりです。その時の写真がこのセミナーの写真です。チョウさんは熱心で自分の時の講義ばかりでなく、他の3人の講師の時も参加し積極的に発言してセミナーを盛り上げてくれました。この時の講演は記録にとり「椅子」の2冊目の本として収録し出版しましたが、チョウさんは出版に同意していただけず、後に香川、牟礼にある「桜製作所」永見宏介社長の講演を入れさして頂きました。その後、毎年、開催した「椅子塾展」にはほとんど毎回、来て塾生が製作した椅子に当人を前に直接コメントして頂けるのが暗黙の恒例になったことは今となっては贅沢なことでした。でもチョウさんは結構茶目っ気があり特に女性の作った椅子には甘く、男性には厳しく解説し楽しんでいたようです。それだけ、椅子が好きだったんですね! | ||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() 新宿パークタワーOZONEで開催された椅子塾展 |
||||||||||||||||||||||||
「暮らしの中の木の椅子展」あとチョウさんは2年ごとの朝日新聞社主催「暮らしの中の木の椅子展」の審査員もやっており入選100点の中のほぼ10%は椅子塾OBの作品が入賞していたので、ここでもお世話になっていました。そのあと私自身が自分で自分の椅子「Awaza」を販売し、展示会、「100%デザイン」やビックサイトでの展示にもほとんどといっていい程寄ってくれました。青山の事務所での椅子塾の授業にも「ちょっと近くに来たから少しだけお邪魔して良いかな」といって時々突然現れたり、そのちょっとが数時間ということもたびたび。勿論、塾生は大喜び。 そして私が試作して展示に出して事務所で使っていた椅子に「形はイマイチだが座り心地は流石だね?」とけなされたのか、誉められたのか判りませんがうれしいコメント。その椅子はその後、椅子塾の製図の模写に使っています。あの口の悪いチョウさんに誉められたのだからと言う理由で。 そんな幸せの日々も過ぎその後、最愛の奥様も亡くされて、「暮らしの中の木の椅子展」も予算の関係で10年続いたのを期に終了。椅子塾10周年記念の「300 Chairs」展も過ぎ展示会も毎年やらなくなりました。 |
![]() 座り心地をチョウさんに誉められた椅子 |
|||||||||||||||||||||||
あるとき突然、「Cho」のイニシャル入り「Shuki」の「おちょこ」が1つ、我家にが届きました。その製造送り主に尋ねた所、チョウさんは老人ホームに入っていることを確認しましたが、それを知られること警戒している様な反応があり、私なりにチョウさんの「ダンディズム」を知っているだけに向こうからお声がかからなければそっとしていようと決めました。
そして訃報です。椅子塾セミナーの講演をお願いしていたとき海軍の特攻兵器、「回転」の設計チームにも参加していたこと等、日頃聞けない話等もお聞きしました。満州に生まれ東京美術学校(現在の芸大、建築学部)在籍中に海軍の仕事もしていたチョウさんには我々には理解し得ないそれなりの戦争体験から来る複雑な想い、生き様があったとしても当然です。 |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() ![]()
|
||||||||||||||||||||||||
「岡本太郎」と出会う一度こんな事がありました。チョウさんが坂倉建築事務所のある六本木の敷地内の「サカギャラリー」で自身の椅子の個展を開催したとき、待ち合わせて「サカギャラリー」に行くと、坂倉準三の奥様がいらしてとても喜んで話している印象が目に焼き付いています。するとそこにあの画家の「岡本太郎」がきたのです。私は話しませんでしたが坂倉準三の奥様とチョウさんと3人で楽しく会話しているシーンをそばで聞いているのもなかなかでした。歴史上の人物もそれぞれいなくなり今はまぶたに焼き付いた思い出のみです。いま思うと椅子のデザインを専門としたおかげで随分と世界中の素晴しいクリエーターと直接お会いすることが出来ました。レイ・イームズ、デビット・ローランド、ドン・アルビンソン、フロレンス・ノル、ハンス・ウエグナー夫妻、ビル・スタンプ、マリオ・ベリーニ、ブルーノ・マトソン、他、日本では豊口克平、佐々木達三、渡辺力、小原二郎、倉俣史郎、そして長大作さん。まだまだ沢山。チョウさん、色々お世話になりありがとうございました。楽しい思い出も沢山ありがとうございました。心よりご冥福をお祈り申し上げますと共に、深く深く感謝申し上げます。そしてご苦労様でしたチョウさん。 |
![]() 青山IDEEでの個展のとき、自分で描いた「招き猫」と共に。 |
|||||||||||||||||||||||
2014年6月30日 井上 昇 | ||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||
2014年7月31日(木)
● 井上昇のいすの話-49 Part 4 |
||||||||||||||||||||||||
ロイヤルティーよりもっと良い仕事-1先月は「いすの話」を休み、長大作さんを偲んで書きました。この7月は私にとって嬉しかったこと、悲しかったことの2つが重なりました。この2つはどちらも以前私が11年勤務していた大手オフィス家具会社O社と関係がありますのでそれを話させていただきます。 私は23歳かららO社で働き始めましたが、本格的に椅子のデザインをスタートしたのは30歳からでした。年齢的には遅いほうです。2012年の「いすの話」にも書きましたがそれ以前はスーパーマーケットや専門店ストア、家具ショールームやオフィスインテリアの仕事が中心でした。ですから、今でもインテリアデザインは出来ますしその知識は今でも通用します。今では縮小してやや面影は薄くなってしまいましたが以前、会員だったJIDA(日本インダストリアルデザイナーズ協会)や、現在会員であるJID(日本インテリアデザイナー協会)、その他、もう一カ所のデザイナーズ協会、3本部のインテリアは私がボランティアでデザインし家具の購入までお手伝いしました。それが出来るのも、O社で学んだ実務経験があるからです。合計11年間在籍しましたが、前半の5年間はストア部、スペースデザイン部で主にスーパーマーケット、専門店の店舗設計とSPと呼ばれる店舗什器のスペシャルオーダーの設計、大手物件オフィスインテリアの設計と造作、展示会のディスプレイや自社ショールームの設計。納入販売額は数百万円から数千万円規模と大型物件が多いのがほとんど。 |
|
|||||||||||||||||||||||
開発部では主にオフィスで使われるラウンジチェアやソファ、ホーム用DIY椅子、物件対応の椅子の開発、この中には6万脚納入した郵便局の仕分け椅子等がありますが、最後は27型と言うO社の看板商品になるOAチェアーの開発、製品化でした。開発部で「椅子の人間工学」と開発費が数億円も投資するOAチェアーのデザインの経験はO社に在籍していなかったら学べなかったことは事実です。特にO社は製販一体、つまり生産工場と販売部門と両部門がありこれが両輪となった会社で、開発部が生産部門ではなく販売部門の中に配置されている。これが他社の商社的スタイルの要素が濃い大手2社と大きく違う所でした。 |
![]() スペースデザイン時代 |
|||||||||||||||||||||||
![]() ![]() 展示会のディスプレイデザイン(左側)、オフィスインテリアとデスクデザイン(右側) |
![]() 店舗什器のスペシャルオーダーの設計 |
|||||||||||||||||||||||
自社に生産工場があると開発の製品化技術が社内に蓄積されること、開発部が販売本部にあると開発も保守的な工場生産思考から離れ、お客様のニーズをすぐに反映して商品化に結びつけることが可能でその体制が出来ており、さらに開発部は資金の決済がすぐ出来る人、即ち会社の最高責任者との距離が近く日常的に会話が出来る環境があり、Y創業社長が健在だった私の在籍した当時の開発部はそんな状況でした。現在と違って会社の規模も小さかったから出来たのかも知れません。ですから経営とは何かということも未熟ながらも学べたとも言えるでしょう。Y創業社長は飛行機設計のエンジニアでしたから開発の裏も表も理解できるざっくばらんの人でした。今でもO社のY創業社長から聞いて耳に焼き付いている言葉があります。「ヒット商品がないと社長業はやってられないよ!」O社を辞めるとき「会社は大きさではない、小さくても利益が出れば立派な会社だ」こんな言葉はなかなか聞けないものです。その意味で開発とは何か、販売とは何か、経営とは何か学べたのも私の場合はO社での経験、思考が今でもベースになっていることは否めません。この時の良き人々との出会い、考え方が退職して数十年すぎた現在も続いているのです。 | ||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() 27型エルゴノミクスチェアー(左側)、O社、Y創業社長(右側) |
||||||||||||||||||||||||
1-嬉しかったこと今月の7月2日にO社の主催で、私の人間工学の師匠で恩師、小原二郎千葉大学名誉教授がなんと98才で「椅子の科学を考える」出版記念で講演。私も出席させて頂きました。立場としては日本インテリア学会の会員として。しかし、小原先生と39年前、初めて出会った同じO社の会議室で、お元気な小原先生に久しぶりにお会いできたこと、そして、講演で先生が提唱された「椅子のプロトタイプの4型」の最新「ラウンジタイプの修正案」を本になされその説明を直接、先生から聞けたこと。こんなことがあるなんて信じられないことでした。今回の講義で先生はこんなことを強調されました。椅子は 1:ランバーサポート。2:背もたれの傾斜。3:座面の奥行き。 この3つが重要である。先生の98歳での結論。 |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() 出版記念講演会案内状(左側)、講義する98歳の小原二郎先生(右側) |
||||||||||||||||||||||||
現在の私の会社の仕事の形態は、外部のクライアントから仕事をもらう以前の形態から、すべて自社で販売する商品、椅子の製品企画、デザイン、製造(委託)、販売まで一貫して出来る体制になっていて、日本人の為のラウンジチェアーを丁度これから企画に入る時だったので今回の小原先生の新しいラウンジチェアー「椅子のプロトタイプの4型」新提案はまさになんと言うタイミングの良さでしょう。
私は小原先生にこのO社の開発部時代にお会いしてご指導うけて以来、先生の提唱している「日本人の為の椅子の人間工学」理論の実際の椅子への実践派,武闘派という立場で活動して来ました。なかでも事務用のOAチェアーのデザイン、設計では20年にわたり、O社、K社、I社の日本のオフィス家具の御三家といわれるところでOAチェアーをデザインし、生産された合計400万脚をこえる椅子は日本中で販売され使われてきました。それは400万人以上の方が、私が小原理論を使ってデザインした椅子を長年使われて、それなりの反応は良かったという事は、小原理論が間違いでなかった、正しかったと証明されたと言っても良いと思います。それは今までもそうですし、これからも変わることはないでしょう。 今は大学でも美術学校でも「椅子の人間工学」を本格的に教えているところはほんとに少なく、これはなんとかしなければとの思いで「日本人の為の椅子の人間工学」を学べる「椅子塾」を立ち上げたのもその危機感からでした。そのこともあって小原先生との出会いから39年後の今、改めて98歳の先生から自分が提唱された小原理論のその後の修正案を本人から直接お聞きできた事は「うれしい」の一言なのです。さっそく私の新しいラウンジチェアーに新しい小原理論をとりいれ設計し販売します。自分でやろうと思ったらすぐ出来る自由があり、製造、販売し、その椅子を提供できる。これはとても社会的意義があることです。 |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() プロトタイプ2型(左側)新しいプロトタイプ4型の提案、『椅子の科学を考える』小原二郎著より抜粋(右側) |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() 自社企画椅子 Awazaチェアー(左側)自社企画椅子 Awaza LDR 回転チェアー(右側) |
||||||||||||||||||||||||
2-悲しかったことそのO社の13歳年下の開発部の後輩で?、会社の事務用の最新のOAチェア−のデザインを長年にわたり自身の椅子デザインばかりでなく、外部デザイナーとのコラボレーションを含め製品開発を取り仕切っていたN氏が今年3月に病に倒れ亡くなった事、それを今月知った事です。50代半ばで!。私は彼の才能を高く評価し尊敬していた一人です。人間的にもバランスのとれは素晴らしい人でした。彼も心底、椅子のデザインにこだわり、楽しんでいた人でした。定年後、会社と言うシラガミをはなれてゆっくりとお互い大好きな椅子のはなしガ出来ることを楽しみにしていましたがそれもかなわぬ夢となりました。 彼が若くして亡くなったことは彼が活躍の舞台としていたO社にとっても大きな損失でしょう。人は多くいても彼ほどの才能ある人物はなかなかいないからです。日本にとっても大きな損失です。 |
![]() 海外デザイナーとの共同開発OAチェアー |
|||||||||||||||||||||||
私はとうの昔にその職場をさりライバルメーカーの仕事をしていましたからNさんと直接一緒に仕事した事はありませんしゆっくりお話ししたこともありません。彼はO社インハウスデザイナーとして大活躍していました。インハウスデザイナーは自分のプロジェクトだけでなく、外部から持ち込まれる仕事も仕事としてまとめなければなりません。外部デザイナーの仕事はアイデアをいただきながらも内部でサポートしつつ完成まで仕上げるのは並大抵の苦労ではありません。そしていかに良い仕事をしてもその名誉はすべて外部デザイナーに帰します。まして海外の有名デザイナーとなるとなおさらです。私も最初はインハウスデザイナーでしたからその社内事情をよく理解できるのですが、外部デザイナーとの仕事の90%近くの開発作業は社内デザイナーが仕事としてやっています。そして名前は出ませんし完全な裏方です。しかし、このような社内の優秀な人がいないと高いレベルの商品開発は出来ないのです。その後輩のNさんとは海外や国内での展示会のとき、よく会いました。私も20年ほど海外の家具見本市には欠かさず行っていましたので、Nさんとは同業なので行く場所も同じ、必ず会いました。日本でよりも海外でよく会って二言三言、挨拶がてらお話ししてたというのが本当です。そして会社を離れても先輩、後輩という立場の関係、お互い椅子が大好き、そしてお互いの力量を認めあっていましたので、目と目が会い、一言二言、話しかわすだけでお互いわかりあえたのです。私の椅子の仕事を認めてくれていましたが又、それ以上に負けたくない意識は旺盛でした。 | ||||||||||||||||||||||||
今まで私があった日本人の椅子デザイナーでこれは本物、凄いと思ったデザイナーはそう多くはいません。銀山会というグループをつくって交流があった九州の家具デザイナー、故・佐々木敏光氏はその一人です。飛騨産業の「クレセント」シリーズと「森のことば」シリーズのデザインで有名ですが天童木工でも良い作品を残しています。かれも同じく50代半ばで亡くなってしまいました。佐々木氏は木工家具の世界でしたがNさんはオフィス家具業界。社内デザイナー兼ディレクターで生涯は終りましたが彼は佐々木氏と同じく日本に於ける希有の天才的椅子のデザイナーの1人でした。 |
![]() 故・佐々木敏光氏 |
|||||||||||||||||||||||
![]() ![]() ![]() 飛騨産業:「クレセント」(左側)、「森のことば」ダイニング(中央)、「森のことば」リビングチェアー(右側) |
||||||||||||||||||||||||
インハウスデザイナーだった彼は今後も名前が世に出ることはないかも知れません。しかし、彼がデザインした、コーディネートした椅子に座っている人は数百万人いるはずです。そのことをNさんは良く知っており椅子デザイナーとして夭折したことは当人にとっては不本意ながら、椅子のデザイナー人生としては満足な人生だったと拝察いたします。彼の業績は忘れることは出来ません。
亡くなられた今ですから言えますがNさんがまだお元気なとき、生前こんなことばのやり取りをした事ありました。それは私のある親しい友人と和食屋で夜、会食していた時です。偶然にもその同じ和食屋に彼も会社の仲間と来て偶然遭いました。お互いびっくりしながらもうれしく、しばらく立ち話した事があります。当然その時の話題は椅子の話です。私は彼が担当しているメッシュのOAチェアーの背あたりについてサポートがゆるく、背が猫背になるのではないかと指摘したのです。 |
![]() N氏も関わったO社のベストセラーチェアー |
|||||||||||||||||||||||
ヘッドレストがあるので首が前に押され余計それが気になると話したのです。彼も反論しパソコン作業する人はこのような姿勢で作業するのでこれで良いのですといいます。私はそういう人も多いかもしれないがそうでない人もいるかもしれない。もっと背のランバーサポートを上げて背をしっかりサポートし、しっかりSの字になるようにすべきだと思うよと雑談の中で言いました。そして、会社の椅子の場合、使う人は会社から椅子を充てがわれて自分で自分の使う椅子を選べないから設計者である椅子デザイナーがその辺り、使う人の事を良く考えて設計してあげないとこれはある意味での「犯罪だよ」というと、彼は答えて「犯罪っすか?」、そこまで言いますかと驚いた表情で笑っていた顔が思い出されます。他の人には言えません。Nさんだから同じクリエーターとして尊敬し、お互い椅子のデザインに関し精通している人だから言えることばです。それだけ椅子のデザイナーはユーザーに対して責任を持って設計する必要が倫理的にもあると私は思っています。今回、98歳の小原先生も私と同じようなことをいっていました。「ランバーサポート」が大事だと。そして猫背になるからヘッドレストはいらないと。Nさんのご冥福を心よりお祈りいたします。 | ||||||||||||||||||||||||
![]() ![]()
|
||||||||||||||||||||||||
2014年7月31日 井上 昇 | ||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||
2014年8月31日(日)
● 井上昇のいすの話-50 Part 4 |
||||||||||||||||||||||||
ロイヤルティーよりもっと良い仕事-2「井上昇の椅子塾」-1どうして「椅子塾」を立ち上げたのか。 1999年1月に「井上昇の椅子塾」をスタートしてから今年で16年目。「ロイヤルティーよりもっと良い仕事」と「椅子塾」の活動はつながっています。
クランブルックから帰国して、オフィスのOAチェアーをデザインする仕事を約15年間、50代前半までデザインして来ました。独立して2年半のアメリカ留学後の最初の事務用OAチェアーは約300万脚も生産されながら収入にはあまり結びつきませんでした。しかしその実績のおかげで、ロイヤルティーで契約できる仕事に結びつき約60万脚ほどが生産販売されました。生産数は1/5でありながら収入的にはデザイン料は約15倍。この意味解るでしょうか! |
|
|||||||||||||||||||||||
チェアー デザイン ビジネス
アメリカに留学して以来、20年間 毎年アメリカのシカゴに行きその後、各地の友人のデザイン事務所を訪ねアメリカのデザインビジネスとチェアーデザイナーに会うたびにデザイン契約もアメリカと同じ契約を結べないとデザインビジネスは職業として成立しないし、やる意味はなく、しかし「デザインにはそれだけの力がある」と思うようになりました。先に述べましたがアメリカのデザイン界の長老、ニールス・ディフェリエント大先輩との対話交流がそのベースにあります。もうデザインビジネスというより「人間としての生き方」の領域です。 しかし、日本の景気も90年代バブルがはじけて低迷期に入り、それと連動してオフィス家具業界も余裕がなくなって来ます。そして開発の仕事もなくなって来ます。日本でロイヤルティー契約が出来るようになり、仕事をスタートした以上、不景気で仕事がなくなって来たからといってロイヤルティーでなくても仕事しますので仕事くださいとはとても言えません。それはそれまでロイヤルティーで契約して頂いた「クライアント」に大変失礼なことだし私のニールス・ディフェリエント大先輩との約束にも反するからです。ですから、たとえ仕事がないといっても椅子に関してはロイヤリティの契約が結べなければ仕事はやらないことにし、椅子のデザインの仕事は辞めることを決めました。妥協はありません。 |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() シカゴのネオコン・全米家具見本市(左側)、クランブルック・コネクション(右側) |
![]() ミネアポリスのクランブルック後輩達 |
|||||||||||||||||||||||
時を同じくして若手で優秀な椅子のデザイナーが社内でもフリーランスでも育ってきます。そしてフリーのデザイナーでもロイヤルティーでなくても仕事を受けてゆきます。メーカーに取ってはありがたい存在です。デザイナーが契約ということをしっかりしなければいけないのにデザイナーの意識の欧米に比べてプライドのなさと意志の弱さ、この状況を見ながらつくづく身にしみました。問題はクライアントになくデザイナー自身にあることを。私の出番は無くなりましたが、収入的にはメーカーとのロイヤルティー契約のおかげで目減りするにしても一定の収入はその後10年近く入って来ていますし少ないながら今も続いています。ロイヤルティー契約を結べたことで結果的にその恩恵を一番受けたのは私でそれにこだわらなかったデザイナーはその結果をも受けているのではないでしょうか。 | ||||||||||||||||||||||||
ハーマンミラー・アーロンチェアーそんなおり、アメリカから衝撃的なOAチェアーが発売されます。ハーマンミラーの「アーロンチェアー」。デザイナーはビル・スタンプとドン・チャドウイック。従来のOAチェアーの開発の常識をくつがえす画期的な椅子。瞬く間に評判を呼びメッシュの事務用椅子は全世界的に事務用椅子のデザインスタイルの主流になります。 この椅子の厄介なのはその開発費の高さです。OAチェアーは生産する為の金型費用、製造ライン、開発費まで含めるとその当時、日本では1機種、約3億円かかるという時代でした。そのため投資を回収するのに3年、毎月2,000脚は最低販売しないと資金は回収出来ないと言われていました。それが1つのOAチェアーに10億、15億という費用をかけた事務用椅子が登場して来ました。それはアメリカでの話しですがその波は日本にも押し寄せて来ます。このハーマンミラーの「アーロンチェアー」に対抗する為スチールケースというアメリカで一番大きなオフィス家具会社はなんとたったこの一脚のOAチェアの開発の為、「アーロンチェアー」対抗のため40数億円の費用をかけて「リープチェアー」を開発、発売します。ともに「人間工学」に基づく椅子です。「椅子の人間工学」がいかに椅子の商品において意味があるかお判りでしょうか。 |
||||||||||||||||||||||||
![]() ドン・チャドウィック(左側)、ビル・スタンプ(右側) |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() ハーマンミラー社・アーロンチェアー |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() スチールケース社・リープチェアー |
||||||||||||||||||||||||
このような開発の流れと相まってもう一方では東南アジアから安い事務用椅子が輸入されるようになって来ます。安さが特徴ですが不景気と相まってどんどん拡大して行きます。いま振り返って考えますと私がOAチェアーの開発に携わった時代はコンピューターがオフィスに導入された初期の時代で、長時間パソコンに向かい作業することでオフィスワーカーの健康を考える為に人間工学に基づいたOAチェアーを開発する必要に迫られた時代、製造は100%国産の時代でした。そして日本の景気も上り坂の時で新入社員も増えた時代です。新入社員にはデスクは新品でなくとも椅子だけは新品を用意するという時代でもありました。今とはずいぶん違いますね。毎年のリニューアル需要が事務用椅子だけで300万個という時代。その10%の30万脚を私がデザインした御三家のOA椅子でカバーしていました。今思うと一番良い時代にOAチェアーの開発に関わっていたと今は思います。 | ||||||||||||||||||||||||
川島織物の「Mチェアー」の開発
ということで日本でのOAチェアーの開発も中途半端な時代に突入。私の出番は日本では終わりを告げました。製品デザイナーの弱点はどんなに良い実績を積んでも仕事が来なければその経験、ノウハウを生かすことは出来ません。実質的に失業と同じです。その後、川島織物の椅子用のメッシュファブリックをホーム用の椅子に活かす製品開発のお手伝いさせて頂いたり、他にも事務用に比べたら小プロジェクトのお仕事はさせて頂きましたが、私の得意とする大規模の椅子デザインの仕事は過去形になりはじめました。イームズはじめ有名なデザイナーも無名のデザイナーも現役から引退の時期がかならず来ます。海外での留学の経験も含めた椅子のデザイン、人間工学、知的所有権、パテントの実務経験のノウハウをも宝の持ち腐れになります。どうせ生かせず捨てるとしたらそのノウハウを必要としている人に伝えるのが我々世代の役目ではないかと考えました。折しも同世代の人達が日本ではなく中国にわたり経験を切り売りしている。これはどういうことか。日本人に伝えなくては日本の将来が危ういではないか。日本人の次世代の為に何か出来ないか。 |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() ![]() 川島織物:バネックス布を使った椅子の製品開発(左側)「Mチェアー」ダイニング(中央)「Mチェアー」リビング(右側) |
||||||||||||||||||||||||
アメリカのクランブルックに留学して日本とアメリカの教育システムの違いを体験するにつけアメリカ方式の実務家による少人数の教育を立ち上げることが私の役割ではないかと考えはじめました。スクールという形でなく「塾」という日本の伝統的な町の寺子屋スタイル、「師匠と弟子」という伝統スタイルをとることを表明するため「椅子の塾」即ち「井上昇の椅子塾」を60歳からはじめる予定だったのを5年早めて55歳のとき、20世紀から21世紀の世紀をこえての意味を込めて1999年1月に「椅子塾」をスタートさせたのでした。 | ||||||||||||||||||||||||
椅子塾の見本
「椅子塾」の見本があります。フランク・ロイド・ライトの「タリアセン」です。これは先に述べましたので説明は省きますが、「実務家による私塾」です。もう一つの見本があります。それは武蔵野美術大学時代の3年と4年の時、横浜で教会の幼稚園の場所を借りて幼稚園の園児を集めて「絵画教室」を自分で主催していたことです。この経験はたとえ「子供の絵画教室」といえども自分で経営することの楽しさです。定年後はまた子供を集めて「絵画教室」でもと漠然と考えていましたが実際的には「絵画教室」が社会人の為の「実務家による椅子のデザイン教室」になったと言えなくもありません。 |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]()
|
||||||||||||||||||||||||
南青山で椅子塾スタート
「井上昇の椅子塾」の教室は南青山でデザイン事務所を持っていましたからそこでスタートしました。まだ青山に「IDEE」や家具ショップが沢山今よりもありましたから場所的にはうってつけでした。この青山の事務所がなかったら「椅子塾」は思ってもできなかったと思います。3年で1,000万円の家賃を払う青山でほとんどボランティアーに近い「椅子塾」では家賃は払えません。OAチェアーのロイヤリティー収入で事務所費用を払い、土曜日の休日を使って「椅子塾」をスタートしたのでした。その意味でOAチェアーのロイヤリティーがなかったら「椅子塾」はやりたくてもできなかったのです。今思うとこの「椅子塾」のスタートが今の「ロイヤルティーよりももっと良い仕事」に結びつくとは夢にも思いませんでした。 |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() 椅南青山椅子塾一期生(左側)、椅子塾一期生5人とミネルバの宮本茂紀さん(右側) |
||||||||||||||||||||||||
2014年8月31日 井上 昇 | ![]() 椅子塾一期生一番目金子さんの椅子 |
|||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||
2014年10月31日(金)
● 井上昇のいすの話-51 Part 4 |
||||||||||||||||||||||||
ロイヤルティーよりもっと良い仕事-3「ロイヤルティーよりもっと良い仕事」にも関連しますが、椅子の仕事の番外編としてフリーランスデザイナーの自由な立場からいろいろな活動に参加してきました。その中でも海外でのセミナーに参加したなかの「バウハウス」セミナーのこと今回、お話いたします。1986年5月26日から6月6日まで東ドイツ、AIF(工業デザイン局)企画、バウハウスにて開校60周年を記念して「フェルディナント・クラマー造形ゼミナールを開催。テーマは「住まいにおける収納」。6カ国から参加し2週間にわたって主に収納家具の開発をテーマにデッソウ市内にある旧バウハウス校舎で生活を共にしセミナーが行なわれました。その時のお話です。 BAUHAUS SEMINARE・1986 1986年5月、まだドイツが東西に分かれていた頃、東ドイツのベルリンから下に電車で1時間30分ほどのデッソウ駅から歩いて10分ほどのところに「BAUHAUS」という建物があります。この建物は戦前、国立美術大学だったところでその建物で東ドイツ政府の教育機関、AIF(工業デザイン局)主催の「バウハウスセミナー」が開催され私も2週間、バウハウスの建物内の宿舎に滞在しセミナーに参加したのです。その時のことをお話しします。その時のテーマは「住まいにおける収納」100万戸の国民住宅の為の収納家具開発です。 |
|
|||||||||||||||||||||||
どうして参加することになったかというと、アメリカの留学から帰国して仕事も入ってきてやや落ち着き始めたころ、その当時、会員だった「日本インダストリアルデザイナー協会」の事務局からこんなセミナーの案内が東ドイツから来ているけど興味ありますかという問い合わせが来ました。参加するには東ドイツ滞在2週間、往復の日時を加えると3週間ほど時間が取れる人ということになるので勤め人の会員は無理、そして語学力が必要なので英語が話せるという条件からフリーランスの家具が専門の私に振ってきたのです。セミナー参加費、交通費も東ドイツ政府負担。収入にはなりませんが滞在費もかかりません。フリーランスの良さは時間を自由に自分で決められること。共産圏に行くという未知の不安はありましたがあこがれの「BAUHAUS」に行けるという信じられない機会に「行きます」と返事。そして出かけたのです。 |
![]() セミナー案内書 |
|||||||||||||||||||||||
![]() デッソウ、バウハウス校舎 |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]()
|
||||||||||||||||||||||||
カンジンスキー、パウル・クレー今の若い方は、「BAUHAUS」をご存知でしょうか。第一次大戦後、ドイツのワイマールというところに1919年、建築家のワルター・グロピウスが初代校長として設立された国立美術大学です。ワイマールでの開校3年後、場所がデッソウに移り1933年にヒットラー率いるナチス政権に閉鎖させられるまでのたった14年間の短い総合美術大学です。教育理念は建築のもとに絵画も彫刻も陶器も家具もテキスタイル、金工、舞踏も総合芸術として統合しようとした美術大学です。教授陣が素晴らしく、建築家ではワルター・グロピウス、ミース・ファンデル・ローエ、マルセル・ブロイアー、画家ではパウル・クレー、ワシリー・カンジンスキー、グラフィックではハーバート・バイヤー等が知られています。第2次大戦後「BAUHAUS」教育は全世界の美術学校の教育プログラムの模範になり大きな影響を与えるのですが、私も「BAUHAUS」にあこがれた一人です。私は高校時代から油絵を描いていましたからはじめは印象派の画家、モネやマネ、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ、最後にブラックなどに影響を受けていました。絵を描いていくうちどうしても生物や風景のありのままを描いていくことに限界を感じ、抽象画に興味が移っていきます。しかし抽象画はとても難しくどう描いていいか行き詰まり始めていきます。見た対象を象徴化、抽象化して描いていくその取りかかりのヒントがまず、ジュルジュ・ブラック、ブラックの次がピエット・モンドリアン、ピカソ、アンリ・マチスと行くのですがどうしても頭の悪い私にはとても難しくてついていけません。悩んで行き詰まっている中で出会ったのが抽象絵画を理論的に分析し、解説してくれる画家、ワシリー・カンジンスキーの「点・線・面」というバウハウス叢書に出会います。そしてパウル・クレーへ。メルヘンチックなクレーの絵には荒々しいカンジンスキーとは違った抽象の世界があります。さらにサルバドル・ダリ、ホアン・ミロと続くのですが、このことに気づいたころは武蔵野美術大学の学生時代でした。 |
![]() 初代学長:ワルター・グロピウス
|
|||||||||||||||||||||||
大学での美術史の講義の中にもバウハウスは出てきます。ワシリー・カンジンスキーとパウル・クレー。特にワシリーカンジンスキーの「点・線・面」は抽象絵画の理論的解説書として難解ながら何となく理解できるような気がしてきます。デザインにもこの「点・線・面」理論は有効かと!校長のワルター・グロピウス、ミース・ファンデル・ローエ、マルセル・ブロイアーは建築家でありながらも家具のデザインもし、とくに椅子のデザインに素晴らしい作品があります。特にミースのバルセロナチェアー、ブロイアーのブロイアーチェアーは素晴らしくはまります。 | ||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() ワシリー・カンジンスキー(左側)、パウル・クレー(右側) |
||||||||||||||||||||||||
BAUHAUSの椅子
私が椅子のデザインの素晴らしさに目覚めたのもこれがきっかけでした。ワシリー・カンジンスキーとパウル・クレーからワルター・グロピウス、ミース・ファンデル・ローエ、マルセル・ブロイアーへ!「BAUHAUS」は無名のアーチストが「BAUHAUS」という集団のアーチスト集団のなかで影響をうけることによってそれぞれ時代を代表するアーチスト、建築家、デザイナーになっていく。これは凄い。こんな美術学校に行きたい、参加したい、これはあこがれを超えて夢です。「BAUHAUSU」は戦前の学校で過去形。夢の世界。「BAUHAUS」の建築家、デザイナー達は閉鎖後世界に散らばり、アメリカにも亡命して1950年代のアメリカの建築、デザインの黄金時代をささえるベースになっていくのですが(クランブルック美術大学院もその1つ)私の20代前半は「BAUHAUS」はデザインの幻の聖地の1つでした。美術大学を卒業してからもその影を慕ってもし海外に留学するならドイツと決めていました。戦後、ワイマール、デッソウは東ドイツに入ってしまっていてとても訪れることが出来るとこではありません。西ドイツのウルムにバウハウスの教育を継承した美術大学「ウルム造形大学」が設立され日本からもバウハウスに憧れる留学生が留学していました。その「ウルム造形大学」に留学するにはドイツ語が必修です。そこで会社に勤めながらも大森や赤坂にあった「ドイツインスティチュート語学学校」に通算で5年ばかり夜間通っていましたがドイツ語は私には難しく、仕事が忙しくなるととてもついていけず途中で投げ出してしまってドイツ留学はあきらめた経緯があります。でもこのドイツ語をすこし勉強したことがあとで役に立つことになります。 |
![]() ミース・ファンデルローエ
|
|||||||||||||||||||||||
![]() ![]() バウハウス劇場:折りたたみ椅子:マルセル・ブロイアー(左側)、ワシリーチェア−:マルセル・ブロイアー(右側) ![]() ワシリーチェア−:マルセル・ブロイアー |
||||||||||||||||||||||||
BAUHAUSへの道、羽田・モスクワ・東ベルリン
バウハウスは東ドイツにあるのでそこに行くのには東ドイツのベルリン経由でしか行けません。当時のベルリンは西ベルリンの空港と東ベルリンの空港と分かれており東ドイツに入るには東ベルリンの空港に行き、そこからデッソウに行くことになります。ビザの関係もあってバウハウスセミナー事務局と連絡とりながら同じ共産圏のロシア経由を選択、羽田の飛行場からソ連の航空会社アエロフロートに乗り、ウラジォストック、モスクワ一泊経由で東ベルリン空港に向かいます。私はその前もその後も20カ国以上海外に行きましたが、モスクワ空港でのトランジットでの一泊はよその国では絶対経験できない体験をします。モスクワに夜間に到着。乗客全員降ろされて税関を通り、空港そばのホテルにバスで連れて行かれます。税関を通るのが一苦労。税関の係官がのらりくらり仕事を延ばすのです。乗客全員長いことフロアーで待たされます。同じ飛行機で知り合った沖縄出身のカメラマンの方はなれた者で税関の係官にアメリカのタバコを一箱あげると税関の係官はすぐに作業してくれます。つまるところ税関のお役人は仕事が忙しいから延ばしているのではなくそれを期待してだらだら延ばしているのです。ようやく税関をすぎバスに乗せられてホテルにつくと今度は乗客全員のパスポートをにこっともしない係官に取り上げられます。朝まで預かると!そしてホテルに入ると今度は乗客を国籍に関係なく2人一組に分け部屋を決めていきます。あわててその日本人のカメラマンと同室にしてもらい指名された部屋に入ります。お腹がすいたのですぐに食堂に行くと乗客全員分の食事がなく取り合いになり早い者勝ち。最低限の食事をすませ部屋にもどりシャワーでも浴びようかと蛇口をひねったら、今度は故障していてお湯が全然出てきません。翌朝、またにこりともしない係官の監視のもとバスにのせられ空港へ。サービス精神ゼロどころかまるで乗客を犯罪者扱いの対応!これが共産圏か〜!そうなのです。みんな公務員なのです。えらいのです。ロシアの女性の係官もみんなモデルばりのスタイルと美女ばかり。しかしこちらのお嬢さん係官達ものらりくらりとシラケています。そんな対応に戸惑いながらもモスクワ空港から東ベルリン・シェーンフィールド空港に到着します。 東ベルリン空港からデッソウ・バウハウスへ 東ベルリン空港に降り立つと西側の空港と雰囲気が全然違います。緊張しながらも税関を抜け持参のドル紙幣を東ドイツマルクに両替します。そのとき東ドイツマルク紙幣と一緒に両替証明書を渡されます。そして東ドイツマルクが残ったらこの両替証明書とともに提出すれば元のドルに両替しますとのこと。東ドイツマルクは東ドイツのみ有効で国外では使えないので紙切れ同然。それをすませ、空港の送迎ロビーに出ると、NOBORU INOUEの紙看板を持った2人の年配の男性と一人の美しい女性が直立不動で待っています。それほど大きな空港ではないのですぐにこちらも見つけ英語で挨拶。しかしものすごく親切に対応してくれますが英語が苦手な様子。すぐに空港の外の駐車場にとめてあった乗用車に4人で乗り一番の年配者が運転。アウトバーンを南におりて一気にデッソウのバウハウスにノンストップで向かいます。 後でわかったのですが運転してくれた年配者はバウハウスの館長、AIFの職員でもあるカールハインツ・ブルマイスター氏、もう一人の男性は今回のバウハウスセミナーの責任者で大学の教授、Dr.ハインツ・ヒルディナ氏、もう一人の美しい女性はAIFの職員、Mrs.ルポレヒト、セミナー係の世話人でした。車はさすがに紙で出来たトラバントではありませんでしたが小型の質素な乗用車でした。バウハウスに到着するとその隣はソ連の軍人が駐留する軍の宿舎があって威圧的な雰囲気が漂っています。 |
![]() アエロフロートの機内
|
|||||||||||||||||||||||
デッソウ・バウハウス到着
バウハウスに着くと館長室に通されセミナーの内容など説明を受けて、バウハウスの校舎の中を館長自ら案内してくれます。そして食堂と宿舎。宿舎はバウハウス校舎内のあの有名な学生寮の一部屋に連れて行かれます。個室です。他の参加者は2人部屋もあるようでした。ただベランダは古くなっているから出ない方が良いとのアドバイス。セミナー参加者は西側からはオランダの教授と日本からの私の二人のみ。あとは共産圏の参加者。バウハウスに着いたばかりの時は解りませんでしたが、地元の東ドイツの参加者以外に、ハンガリー、チェコ、ブルガリアの参加者がいて同じ寮生活を共にしながら西側では得がたい、共産圏ならでは独特の2週間の共同生活がスタートしました。ただ不思議に思ったのはソ連からの参加者はいなかったこと。セミナーや共同生活での話は次回。 |
||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() デッソウ、バウハウス玄関(左側)、バウハウス食堂(右側) |
||||||||||||||||||||||||
![]() バウハウス学生寮:ここに2週間滞在 |
||||||||||||||||||||||||
2014年10月31日 井上 昇
|
||||||||||||||||||||||||
|